インターネットあれこれ

 インターネット上で拙いブログを始めて約二ヶ月が経過した。ベテラン諸氏に比べれば貧弱な体験に過ぎないが、雑感を綴ってみよう。
◇ もともとニフテイ会員で、十数年来、(旧)パソコン通信の世界にいた。
 ニフテイがインターネットへ切り替えられ、やがてメールも出来なくなるという事態に及んで、やっと昨年末からインターネット機種に乗り換え、このほどブログへ辿り着いたという次第。

 人様からほぼ10年は遅れをとっている訳で、古いものに固執する様を、さぞ笑われていたことだろうとは思うが、本人はさほどに感じていない。
 以前から毛筆〜万年筆〜ワープロへの変化はあったが、文字を書付ける人間そのものには、いささかの変化もない。
 鉄道で言えば、在来線に新幹線が加わったようなもので、在来線には各駅に停車しつつ「回り燈籠の絵のように、変わる景色の面白や」を楽しんだり、同乗の客と世間話に興じたり、という風情があった。
 在来線が廃線となれば、新幹線に鞍替えするわけだが、乗っている人間に変りはなく、確かに便利になった反面に、失ってしまったものもある。

◇ ブログ・二ヶ月の感想をざっとしるしてみると;
 ----- カウンター(来読者数)の感じが分かり、かつ、あまりそれに捉われるべきでないこと。リンク、コメント、トラックバックの実態の一端を覗き見たこと。成り行き上、人の様々なブログを拝見出来たこと(開店休業も多い)。ブログに画像やカラー模様をあしらっても、必ずしも見栄えはよくならないこと(視線が拡散する)。人気ブログは文字・内容で勝負しているらしいこと。有名人ブログには(本人のイメージが壊されないように?)執筆代行者がいるらしいこと。ブログサービスには、いろいろな性格があるらしいこと。

◇ さらに憶測を交えて申し上げてみると;
 ----- インターネット/ブログの活用者は、数千万/数百万と言われているが、その実態は把握し難い。
 仮に数千万人が実地に稼働しているとしても、それが国民世論を動かすほどの勢力となっいいるのかどうか。
 国民の大半がインターネットと関わりのない生活をしているものとすると、俗に言う「遺賢」は、この「大半」のなかに存在する、ということになろうか。

◇ インターネットの魅力は、日常生活圏の外にいる見知らぬ人と、楽しく対話が出来る点にある、とされる。
 実態はどうか。
 これがよく見えない。
 「ML」という道具があるが、これだと一定の仲間と対話が可能。しかし、これだと昔のパソコン通信会議室と似たようなものだ。いや、少し狭い世界かもしれない。新しい血が入ってこない。
 
 インターネット掲示板が所謂交流の場であろうが、そこでの対話は、何かケータイ電話/メールの延長のような気がしてならない。
 何か気忙しい世界のようであるが、そこで見る走り書きのような一句に、実に鋭いものを発見出来ることがある。

◇ インターネットの美点は、情報検索能力の素晴らしさと、他のサイトとのリンク能力の高さ、にあると思われるのだがどうであろうか。これだけは旧パソコン通信では及びも付かない。

 しかし、好事魔多し。落とし穴もありそうだ。
 ベテランの指摘するところによると、あまり情報検索やブログ世界でのサーフインに溺れていると、思考能力が停止するという。
 例えば、熱心なブロガーが時事/社会問題について高説を述べようと思うと、その材料はいくらでもインターネット内で発見出来る。(芸術、文化面では、こうはいかないだろう)。
 それらを継ぎ接ぎしているうちに、いつしか本を読まなくなり、いつか頭が止まってしまうのだという。

 思想家・内田 樹 氏の言葉を引用してみよう(「知に働けば蔵が建つ」)。

 ----- 教養は情報ではない。教養とは、かたちのある情報単位の集積のことではなく、カテゴリーもクラスも重要度をまったく異にする情報単位のあいだの関係性を発見する力である。
 雑学は「すでに知っていること」を取り出すことしかできない。教養とは、「まだ知らないこと」へフライングする能力のことである。

<権兵衛の一言>
 偉そうなことを言うのは、もう少しブログの修行をしてからにすればいいのに-------。
 言っているのは「すでに知られていること」ばかりじゃないかの。