音楽閑話(2)/耶律楚材の遺訓
「一利を興すは、一害を除くに如かず」、この教訓は楽器(その他)の学習面にも活きているのではないか? というのが今回の主題である。
-----活きているのではないか? と、わざわざ問題にするのはほかでもない、実は、活きているようにはなかなか見えないからなのである。
志を立てて楽器学習を始める場合、気が高揚して足が地につかないことが多いものだ。名演奏家の妙技を聞いた後などがそうなのだが、殊に、父兄とか教師が監督役として煽り立てる時が問題。
弦楽器というのは、巧みに演奏されている時は、素人でも簡単に弾けるように見えるところが鬼門である。(学習方法が進歩すればする程、この鬼門は大きく、深くなる)。
本人の進捗度よりも、テキストの進度、同列の学習者の進度が問題となることがある。
「お隣の太郎ちゃんは、もうホーマン(教則本)2巻まで進んだのよ。僕ちゃんは何やってるのよん。負けちゃ駄目じゃないの」
よくある光景ではないか。
本人がこれらを、正しく刺激/激励と受け取ってくれればいいのだが、身の程を忘れて高望み、空回りばかりするようになると、ミューズの神から見放されることにもなりかねない。
ここで気を鎮めて「一害を除く」などという至芸が出来る筈もない。不思議なことに、教師もこれを口にすることを憚るような気配があるという。何か学習意欲に水を差すような感じとなるのだろうか。
「一害」というのは、ここでは「悪い癖」「基礎の不備」、あるいは「欠点」と看做してよかろう。
初心者に取り憑きやすい「一害」の好例として「ヴブラート」を擧げてみよう。弦楽器奏者が、楽器の(指板)上で左手首を震わせるアレである。
何とも魅力的でカッコいいアレに惹かれて弦楽器を始める人は少なくないのではなかろうか。
初心者はやたらこれに執着し、早く極意を教えろ、と教師に迫る。
ところが、音楽に色彩と豊かさを齎すヴィブラートはそう簡単ではない。神様からの贈り物と言われるくらいに、なかなかクリア出来ないが、フトした拍子に出来るようになると、今度は抑制がきかなくなる。
ヴィブラートというのは音楽表現手段の一種であるから、かけるのは勿論のこと、太く細かく、緩急自在に、場合によっては、かけないことも出来なくてはならない。
しかるに、初心者の悲しさ、一旦かかり出すと痙攣状態のようになって止めることが出来ない。そのヴィブラートが素敵なものであればともかく、小皺が寄ったようなチリチリしたものである場合は目(耳)も当てられない。
ここに一つの教本がある。
弦の国・ルーマニアで広く使われているとされるジェアンタ/マノリュウ共著のヴァイオリン教本(春秋社刊)である。
ここでの学習思想ははっきりしていて、ヴィブラートの学習は、訓練開始後数年を経た後とされている。
つまり、数年間の左手の訓練を経て、しっかりした技術が身に(左手に)ついてから、初めてヴィブラートの学習が許される。
ヴァイオリン学習面における「利」と「害」をはっきりと学習過程上に示した好例と見られる所以である。
しからば、これで問題は片付いたのであろうか。
なかなかそうはならないところが人間が学習する場合の難しさである。
ヴィブラートに魅力を感じて学習を始めた人に、数年間「お預け」をさせることが果たして可能か。その間、学習者は(家族も)自らの雑音に正面から向き合う苦痛に耐えなくてばならぬ。
ヴィブラートの誘惑に負けて、技術不全のまま、周囲に雑音を振りまきながら前へ進むか、あるいは、急がば回れ、で数年先の大成を期するか。
特に、プロになるつもりもない「大人」の学習面では、本人も教師も大いに悩まされるところとなる。
<権兵衛の一言>
こうした場合、「利」と「害」が画然と区分されているのではなく、不透明に交錯している点が、極めて人間的と言えるのではないか。