音楽閑話(1)/天才ヴァイオリニストたち

 私にとっての天才ヴァイオリニストの代表格といえはクライスラーハイフェッツ、この二人しかいない。
 演奏の天才なら一人に限ってもよさそうだが、個性/好みの違いで、どうしても二人いなければならない。

 これを学んだのは田舎の高校生時代だった。
 流行歌という音楽環境(学校でも)しかなかったところに、不意に教養人揃いという家庭に紹介される機会を得て、そこで初めてヴィオリン曲というSPレコードを拝聴するという光栄に浴したのである。曲はメンデルスゾーンの協奏曲で、奏者はクライスラーという人だった。
 田舎者の私に理解出来る筈もなく、恐る恐る借用して拝聴しているうちに、あろうことかSP盤を割ってしまったのであつ。
 慌てた私は数少ないレコード店を探し回ってやっと見付けたのがハイフェッツ盤。(浅はかにも)曲が同じならこれでよかろうとお届けしたところ、割れていてもいいからクライスラーに限るという。
 世の中には天才はいろいろといるものだ、という痛い教訓を得た初めての経験だった。

 この二人の持ち味は全く対照的だ。説明するまでもなかろう。技術はハイフェッツのほうが勝っているような印象があるが、そんなことはない。
 クライスラーの音を オシログラフか何かで分析した人がいるそうだが、完璧な演奏ということだった。分析しなくてもいい演奏はい演奏以外の何物でもない。

 帝政ロシアで革命が起こった時、国外にいた多くの芸術家は帰国しようとしたが、ミルステインとホロヴィッツの超大物コンビは帰国しようとしなかった。その理由は、欧州でないとクライスラーが聞けなくなるから、というものだったそうである。

 この二人を双璧として、その周囲を彩る天才たちは、例えば、テイボー、オイストラフ、グルミオーである。
 何とも古めかしい顔ぶれだと思う人がいるかもしれないが、天才に古いも新しいもない。音盤/録音の新旧も問題ではない。

 対照的な存在として浮上するのが、いわゆるポピュラー系の奏者である。
 当然、技術は高いものが求められるから、最近は芸大等出身奏者の活躍が目立つ。
 私は寺井尚子が好きだ。前橋汀子は、お高い存在のように見えるが、素晴らしい才能の持ち主だ。外国人で抜きん出ているのがヨーヨーマ。天は二物を与え賜う。

 同じく二物を賜わった方はヴァイオリニストのアパップ氏だ。宮崎市での音楽祭でモーツアルトのヴァイオリン協奏曲第3番を素晴らしい美音で弾いているが、カデンツアに差しかかると突然ポピュラー系ヴァイオリン奏法に変身、これまた見事に弾き切って、聴衆は勿論のこと、伴奏オーケストラからも(半ば呆れ顔で)盛大な拍手を受けていた。

 クラシック系とポピュラー系の奏法を弾き分けるといのは、高度な技術と鋭い耳を持っていなくては不可能である。これはハイフフェッツ、クライスラー、ヨーヨーマとしても容易なことではあるまい。
 (どちらかに徹するということすら、まず容易なことではない)。

<権兵衛の一言>
 天才の定義は、時代とともに変えなくてはならん、といことなのだろうね。あるいは、天与の才能は同じでも、その現れ方が違うとか。
 多能の天才は、コンサートホールばかりでなく、ナイトクラブ等のヴァイオリニストのなかにもいる。その話はいずれまた。