蟻とキリギリスと定年

 先に「定年」について触れたが、誰もが真剣に読んでくれたとは思われぬ(失礼)。普通、人は将来のことをあまり考えない(考えたくない)性向があるものだし、予測通りに事が運ぶことは滅多にあるものではない。(しかし、準備していないものは必ず起こることになっている)。
 これは私が確信を持って断言出来る。何故なら定年前の私自身がそうだったからである。

 しかし、たまたま目にした新聞の記事には考えさせられ、かつ少し悲しくなった。
 記事タイトルは「遊べるうちに遊ぶ」。ある主婦の弁である。
 これはこれで一つの立派な見識であり、生活哲学である。しかし、いろいろと前提条件がありそうだ。まず家族、そして経済的基盤。

 この主婦の場合は「私には来年はない。いまが大事」という理由で、主に海外へ浩然の気を養いに出かけて行くのらしいが、案の定留守番させられる「夫」は爆発する-----家事はどうなっているのか、子供たちの素行が心配、老後の計画は立てているのか。

 考えさせられるのは、主婦の一言だ-----夫の定年は来年。そうなったら今のようには遊べない。でも遊べるうちは遊んでいたい。 老後のことはその時考える。
 
 夫婦間の相談で片がつくのならともかく、最期の一句に注目!
 「その時考えて」間に合うようなら何ら心配もない。
 しかし、多くの事例は(キリギリスに教えて貰うまでもなく)そうはならないであろうことを物語っている(私は貧乏性だから、つい「杞憂」をしちゃうネ)。

 私の知人は豪の者で、大病の手術を前に、初めて健康保険に入った(保険料の纏め払いをした)。しかし、その後も懲りないで、年を重ねても何の生命保険にも入らない。
 流石に心配になって 聞いてみると、私は病気しないことになっている! と。これは凄い。
 
 この主婦(夫にもいそうだ)の信条は立派だが、私には定年前の夫の心境が痛いほどによく分る。
 しかし、周囲からの忠告は無益かもしれない。「その時」にならないと人は考えないものであるらしいから。

 同じようなケースで、生活習慣病予防のことがある。つまり、健康な人にいくら予防方法を力説しても、「その時」が来るまでは決して聞く耳を持ってもらえない、ということだ。

<権兵衛の一言>
 犬の僕(職業は番犬)に定年はない。というか「定年」という観念すらない。だから、僕の行く先については何の懸念もない。
 遊べるうちに遊び、生きられるうとは生きる。この「うちに」という考え方が犬にはないのだ----「うちに」を考えるのが、人間の偉さであり悲しさでもある。
 迷える人間どもは、僕を見習うとよい。