指揮者なしの合奏----と、小泉丸投げ政治

 大分前のNHKニュースだが、アメリカの「指揮者なし」合奏団のことが話題になった。
  日頃、企業経営に腐心する経営者が、組織内のコミュニケーションの好例をそこに発見出来る、というものだった。
 
 確かに、複数の組織人が、指揮者(リーダー)なしで一糸乱れぬ演奏/経営が出来れば、これは注目に値しよう。
  但し、問題はある。例えば;
1) 指揮者なしの演奏は、困難なものなのか。
2) 合奏の技術は、企業経営に通用するものなのか。

  間違いを恐れず私の感想を述べてみる。(正しい感想なんてあるのだろうか?)。
  指揮者なしでの一糸乱れぬ合奏は、一流のプロなら充分に可能な筈(当たり前)なのである。というか、そういう能力を備えた演奏者のみが、合奏に参加出来ている筈である。
 そして、ここが肝要なのだが、 「一糸乱れぬ合奏」は、人に感動を与える演奏とイコールではない。

  経営者は、この「感動」という点をも見落とさずに、合奏を観察すべきだった。
  企業組織人というのは、決して一流演奏者のような厳しい訓練を経た粒ぞろいの人ばかりではない。その生まれも育ちも異なった人たちを糾合して、一定の経営成果を挙げるのが経営者の職責である。

  だから、リーダーなしの経営は成り立たないのっではないか? というのが私の感想である。(経営者の苦しい胸の内はよく分るような気がする。コミュニケーションばかりがよい仲良し企業でも、潰れることはああるのだ)。

  少し視点は変るが、この指揮なしの合奏を「丸投げ演奏」と評した人がいる。
  「丸投げ」というと、何の前後策も展望もフィードバックもなく、ただ全権を、あるいは責任を他に転嫁するイメージがあるが、一寸違うような気もする。

  よく「丸投げ」で引き合いに出される有名人は小泉首相である。ポスト小泉問題を目前にして、小泉政治総括論議はこの「丸投げ」の是非を含めて、今後さらなる高まりを見せることだろう。と思う。
 
 折も折、水泳プール管理会社が、管理を下請けに丸投げしていて、子供の水死事件を招いた。
 「丸投げ」そのものは必ずしも悪くないが、指針を示さず、報告を求めた上でチェックしてこなかった点では、双方に責任はある。

<権兵衛の一言>
  もし、僕の大切な食事と散歩が、第三者に丸投げされることがあるとしら、事前に食事と散歩の質と量の細かい指示書を作成し、第三者に実行経緯の報告を求め、最終的には成果の評価をしてもらいたいものだ。
  それであって初めて正しい「丸投げ」であったと言えると思う。 「丸投げ」出来る能力があるのは人間なのだから、よろしく頼みますよ。
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