ある同窓会のこと

 皆様は小学校以来の「同窓会」をどのように迎え、どういう思いで過されておられますか。
 私は終戦後の海外からの引揚げ者なので、残念ながら小学校、中学校の同窓会の楽しみは持てずにいます。
 高校は京都の同志社でしたが、親しかった友人も少しずつ鬼籍に入る頃となってしまいました。その校歌(大学と共通)は世界的にも知られているほどの名曲で、最近、合唱団の知人から演奏曲を頂戴して愛聴しているところです。
 同志社高校は京都郊外の田園風の土地にあり、その思い出と京都そのものの一種派手やかな風物と重なって、私の貴重な心の財産となっております。


 当時、親元から月に四千円の仕送りを受けていましたが、ヴァイオリンを買うために、親に内緒で月千円という高額を購入費に当てて、貧乏生活を我慢していました。
 大学(早稲田)では、そのヴァイオリンで、授業もそこそこに学(楽)友たちとオーケストラ活動をさせて貰い、数十年の星霜を経た今、「50歳以上」という資格制限のあるOBオーケストラで、近く親睦コンサートに参加させて頂く運びとなっております。
(*)私が卒業した時に、日本のアマチュアとしては初めてベートーヴェン「第九」交響曲を演奏した、ということになっております。


 演奏面では、まだ指が多少は動きますので(今はチェロですが)、多数ある趣味やお稽古事の会合のなかで、こうした同窓会が持てることをとても幸せなことだと思っております。楽器演奏は楽しいばかりでなく、下手な音が出れば覿面に恥をかくので、その緊張感が体に良いという意見もあります。


 ただ、オーケストラとなると、必要な楽器数を揃えるためもあり、卒業年次は複数年に亘る必要があり、「50歳以上」という幅のある参加資格にはそうのような意味も込められているのです。(と思います)。
 その意味では、同窓会というよりも同門会と称したほうがいいのかもしれません。
 「50歳以上」は若いのでしょうか、それともやや日暮れ頃の定年予備軍という感じでしょうか。
 しかし、音楽演奏という面では、それを専門とした訳ではないにしろ、まだまだ現役でしょう。恥に耐えるのは日常的です。
 先年のことですが、このオーケストラは、ほぼ同年輩の合唱団を糾合して「第九交響曲」を演奏したのです。
 この時は、四人のソリストだけはプロでしたが、指揮者、オーケストラ、合唱団は全員アマチュアOB、平均年齢63歳という堂々たる?陣容でした。オ-ケストラには特に「マチュアード フイルハーモニーオーケストラ」という名称が与えられました。心は「熟年」オーケストラというあたりでしょうか。
 演奏後、特に「息が切れた」というような緊急報告はなかった、と聞いております。


 前述のオーケストラ同門会は、最近、年1回、東京近郊で合宿演奏を行うこととしており、私は参加出来ていなかったのですが、前年はブラームスの第4交響曲という痺れるような名曲をメインとしておりました。滅多に演奏機会のない、そして熟年OBたちの心に響く傑作です。
 今回は、この秋に秩父地方でドヴォルザーク交響曲「新世界」が予定されています。私事となりますが、年を重ねると音楽の嗜好も自ずから固まって(狭まって)きて、私の場合は、心の襞に迫るドヴォルザークシューベルトということになります。グリーグもいいですね。これまで心動かされてきたベートーヴェンブラームスなどは、寝転んで聞くような気分になれず、むしろ、演歌のように しみじみと心に寄り添ってくれるような音楽に魅力を感じるようになります。
 今回の同門会プログラムには、モーツアルトの合唱曲の傑作「アヴェヴェルム コルプス」があり、小品ながらその齎す感動には比類のないものが期待されます。
 その一方で、大合唱を伴うワーグナーの「タンホイザー大行進曲」もあったりして、何か矛盾しているようですが、この血沸き肉踊るような曲に是非とも鼓舞されてみたいものたという気分もあるのです。
 しかし、「新世界」は難曲ですので、息切れせずに参加するためには、いまから猛練習しておく必要があります。マーラーブルックナーのような深淵難解な曲と違って、練習そのものが楽しいです。


 音楽から感動を貰う、ということでは、最近、素敵な音楽案内書に巡り会いました。高名な人の音楽案内書は、案内というよりも理解を超えた説明やら、専門家のためとしか思えない楽典のような解説文が並んでいたりして、音楽をどう楽しめばよいのか、という素人が最も知りたがっている部分が最も遠いところにある、という感じになっています。うっかり「分りません」というと、お前の努力が足りない、叱られそうです。音楽は努力して聞くべきものなのでしょうか。
 良い案内書というのは宮本文昭氏「疾風怒濤のクラシック案内」です。
 どこが疾風怒濤なのかは分りませんが、従来の形を大幅に疾風怒濤の如くに超えた、という意味なら歓迎出来ます。
 細かい内容については別の機会に待ちますが、とにかく難しいことは何も書いてありません。氏が専門としたオーボエという管楽器の世界から見たクラシック音楽の紹介を試みられているのですが、弦楽器のことも、指揮のことも、楽曲の味わいの壷などもぬかりなく分り易く説明してくれています。すべて氏の直観的な印象批評から始まっているのですが、それが普遍的なものに高められているところが素晴しいです。


 なかにビゼーカルメン」についての文章があります。第1幕で許嫁ミカエラが持参した故郷の母からの手紙をホセが読むところのミカエラとの二重唱 ----- 宮本氏はこのオペラを見た子供の頃から、この場面ではいつも泣かされた、とあります。
 ここは何といっても天才作曲家ビゼーの歌作りの才能が遺憾なく発揮されたところで、その美しい感動的な旋律美には心から酔わされてしまいます。
 手紙の背景には、故郷で息子の無事を祈る母心があり、ホセに心を寄せるミカエラの可憐な真情があり、さらには行く手に待ち構えるカルメン刺殺という悲劇があるのですが、母、故郷、愛情という3題話の上に天下の名旋律が重なれば、宮本少年でなくとも必ず泣かされてしまうでしょう。
 私は以前、幸いにも市民オペラ公演「カルメン」でのオーケストラに参加する機会を得たのですが、この場面ではやはり涙を誘われました。練習の際には、ホセが手にする母の手紙が、新聞織込みのチラシを適当に折畳んだものだったりしたものでしたが。
カルメン」第2幕には、これも有名な「花の歌」があります。「カルメン」というと、普通は「カルメン組曲」に取り上げられるような熱情的な曲(「闘牛士の歌」「前奏曲」など)が思い浮かぶのでしょうが、ビゼーの本領は、「手紙」「花の歌」に示されるような素晴しいアリアの分野にこそ存在するので、これはCDで「組曲」を手軽に聞いてしまうのではなく、どうしてもオペラを聞いてみなくてはその真価が分らないことになります。


 さきほど、心を打つ作曲家としてドヴォルザークをあげましたが、彼の音楽には、この「手紙」に表されるような人恋しさ、心情、郷愁、心根、故郷への想い、などが溢れているのです。「新世界」の第2楽章の旋律は「家路」として広く知られています。まさに故郷に通じるものがあるではありませんか。 
 更に幸運なことに、近く、あるオーケストラでドヴォルザーク交響曲第8番」を弾く機会を与えられています。
 この8番はアメリカ滞在中にドヴォルザークが作曲した「新世界」ほどに洗練されてはいませんが、内なる心情は「新世界」そのものです。もっと朴訥な詩情に満ちています。
 更に、このオーケストラは、グリーグや日本の名歌曲「故郷」(兎追いしあの山〜)も取り上げており、これはもう参加する以外にありませんね。


 さきごろ惜しくも亡くなられた吉田秀和氏は、音楽評論の分野で新生面を開かれた方として尊敬しておりますが、氏の名曲解説本「LP 300選」では、ドヴォルザーク「新世界」について、「通俗名曲の十八番の一つ」、「安っぽい効果を狙いすぎている」と酷評されています。
 しかし、私はこの「通俗名曲」で「安っぽい効果」的な曲が大好きなのです。吉田氏の指摘は全く正確です。
 感覚的、心情的に好きな曲を聞くのに、誰憚ることがありましょうか。演歌にも、その歌詞の末尾で「あの ふるさとへ 帰ろかな〜」と切なく歌い上げる曲があり、私は大好きです。
 同窓会の打ち上げには、是非全員で歌ってみたい曲ですね。