雑感/巣篭り、忠犬、別れ、メール効用、アマチュア音楽

◇ 男性  巣篭もり時代?
 若い世代のことなのかもしれないが、男性にはお金を衣類や書籍に回す傾向にあり、女性には相変わらず海外旅行などに向かう風潮があると、言われるようになった。どこまで真実を反映しているのかは分からないが。
 別な面から見れば、男性の自動車離れ、一人で食堂で食事を取ることも出来ない心情、若い未婚女性の専業主婦への回帰 ---- など、多数の連立方程式が解けにくいような分かり難さを覚える。
 学者の分析によると、これは一種の病理現象で、統合失調症の現れだとされるのだが、これでは素人は一層判断に迷うばかりである。
 これを「孤独」という視点から科学的に検討する向きもあるらしい。しかし、いまさら孤独というキーワードを持ち出してみても、事柄が明らかになるとも思われない。人は孤独であることは当たり前のことなのだ。孤独から逃れるすべを知らない人だけが孤独になるのだ、と説明されても、世の中にはもともと孤独を愛する人もいるのだから、孤独にならないように社会全体で見守りましょう、と言っても、それは清く正しく生きましょう、というスローガンのようなもので、迫力に欠ける。
 ではどうすればよいのか。答はない。自己責任だと言うのは簡単だが。
 思い出す戦没学生の詩がある。
 ------ 同じ地点に異なる星を仰ぐ者の
 寂寥と精神の自由のみが
 俺が人間であったことを思い出させてくれるのだ


 そう、人は同じ地点にいても、異なる星を仰ぐことが出来る存在なのである。
 もう一つ思い出す格言がある。
 ------ 一人で居られない者は、人を退屈させる。


◇ 忠犬、そして人との別れ
 家が火事だ! 助けを呼べ! という主人の叫び声に応じて、家を飛び出し、駆けつける消防車を家にまで誘導した忠犬の映像がテレビで紹介されていた。
 犬は神様からの人類への贈り物だと言われる。何と可愛い忠実な生き物なのだろうか。
 我が家の犬「権兵衛」が天寿を全うしてから半年になる。もっと可愛がっておくのだったと悔やんでも、もう彼はいない。何が悲しいといって、いくら後悔しても取り返しのつかぬものほど心の痛むものはない。
 ある雑誌に、妻を失った人が、その悲しみからどうやって立ち直ったか、その体験談を求める声が紹介されていた。
「立ち直る」とはどういうことか。果たして立ち直れるものなのかどうか。
 あまり簡単に「立ち直り」という言葉を使っていいものなのかどうか、考えてしまった。
 犬と人を同じに扱ってはいけないのかもしれないが、取り返しがつまぬ、という点では同じである。
 つまり、どれだけ贖罪の気持が持てるかどうか、という問題と繋がっているようにも思える。その上での立ち直りというのが、本当の問題ではなかろうか。


◇ メールの効用
 沢尻エリカの離婚問題が騒がれている。問題の一つは、夫のところへ離婚の意思がメールで伝えられてきたことだという。三行半の書状がいまやメールとなり、それが果たして許されることなのか、というのが騒ぎの一因となっているようだ。
 ある結婚コンサルタントのような人は、これは有効であると言っていた。何故なら、話し合っても喧嘩になるだけのようだから----- というのがその理由であるらしい。
 以前、ある指揮者が、 オーケストラのスポンサーからの一通のファックスで解雇された、と怒っていたが、メールはもっと非情なものなのであるのか。
 話し合っても喧嘩になるだけだ、と聞かされては、人間の心はどこにいったのだ、と嘆きたくなる。
 このコンサルタントは、そういう非情なメールを、一生貰わなくてすむ保証があるのだろうか。

 
 私はある萬年筆同好会の会員になっているのだが、萬年筆というのは「手書き」の世界で、当然にファックスとかメールとは関係がない。徹底したアナログ/アナクロニズムの世界である。
 これから iPad ブームに晒されることとなり、すべて電子画面上で見ることになるのかもしれないが、 iPad では人の心までも画面上に映し出すことは出来ないだろう。


◇ 定年対策
 ある経営雑誌。読者として想定される人々への定年対策を記事にしていた。
 そのあまりの酷さに一驚!
 企業人は、家庭を顧みない(顧みる余裕のない)人が多いだろうから、自然の成行きとして、奥様の不興を買うこととなる。そして定年になったからといって、俄に家庭で大切に扱われることは望み薄で、粗大ゴミ(自宅難民)となって居場所を失うのがせいぜいのところであろう。
 そこで提言------ 世の定年男性は、すべからく、奥様に迷惑をかけぬように、朝早くから公園や図書館に出勤?して、夕刻に帰宅すべし。
 一定の真実を衝いているのかもしれないが、ちょっとお粗末過ぎる提言ではなかろうか。


生涯学習
 定年対策として、趣味の確保や生涯学習が説かれることがある。
 しかし、定年間際に説かれても間に合わぬことになるのが難点である。
 私は音楽が好きだったので楽器(ヴァイオリン、チェロ)に手を出し、上達こそ出来なかったが、仲間とそこそこにアマチュアオーケストラや室内楽を楽しませて貰うことが出来た。
 いまは、そうは言われなくなったが、クラシック音楽はとかく(不当に)「高尚」とされて、会社などでは居場所に困るようなことがあったのは事実らしい。囲碁、将棋、ゴルフ、野球などと同じく、平和な趣味なのに何故敬遠されるのだろう、という声があったことも聞いている。
 私は定年後のいま、事情で数年間楽器から離れていて、すっかり腕が落ちていたのを、最近になってリハビリを始め、このほどアマチュア音楽愛好家の仲間に入れて貰えることとなった。
 楽器は修得が難しく、また近隣社会に迷惑をかけることもあって、いまでも付き合い憎い世界であるのは事実だが、趣味に生きよ、ということが叫ばれる一方で、クラシック人口が少な過ぎるのは、国家の文化のありようとしては問題である、というような声も聞かれる。
 修得が難しいという点では、例えば邦楽も事情は同じ。しかし、クラシックの分野では、何故か同好者が少ない、もっと国の振興/助成予算を増やせ、という声が一際高いような印象がある。
 以前は、アマチュアの音楽振興についても、大いに語られていた時代があったような印象があるが、いまはどういうわけか、あまりそういう声は聞かれないような気がする。アマチュア音楽が当り前のこととなったのか、世の関心が薄れたのか、そこは分からない。


 話を戻すが、このほど参加させて貰うこととなったアマチュア音楽仲間の世界は、以前とさいて変わっていないような印象がある。腕やレパートリーは確実に上がっているのだが。
 先日、仲間たちの発表会(世に言うオサライ会)を聞いてみたのだが、例えば演奏された「ドムキー」(ドヴォルザークピアノ三重奏曲)は、技量の巧拙を超えて、圧倒的な感興を私に与えた。そして仲間の演奏に聞き入る数十人の善男善女たち。


 私が最も印象的と感じたのは、今も昔もアマチュア楽家人口が同じようだ、という事実は、頭打ちとか停滞と見るのは間違いで、もともと好き者だけが集まってくるのだから、その数が多いとか少ないとかいうのは、問題とするに足りないのではないか、ということである。国の文化政策をことごとしく問題にする必要もないのではないか、というくらいの気持。(どこからか叱られそうだが)。
 少子化は大変な問題だが、これとてもあまり心配していない人もいる(叱られるかな?)。音楽世界にも自然の摂理のようなものが働いて、最適化の方向に向かっているのではないだろうか。


<権兵衛の一言>
 もし「振興策」もどきのものを考えるとしたら、丁度都合のよいものが見付かったので紹介しよう。
 ある雑誌で見たのだが、最近流行っているドラッカー先生の所説に次のとうなものがある。
 私は楽器学習に当って、先生や教科書
に学ぶことがなかったので、当然に成長が鈍くなっているわけなのだが、ドラッカーの所説は役に立ちそうだ。
 ------- リスクは基本的に、四つの種類がある。
 第1に、負うべきリスク、第2 に、負えるリスク、第3に、負えないリスク、第4に、負わないことによるリスク。


 この「リスク」という言葉を、楽器学習における「テキスト」に置き換えてみたらどうなるか。
 例えば、第4 については、学ぶべきテキストを学ばなかったら、約束されていたであろう進歩/向上は、当然期待出来ない事となってしまう。
 些かこじつけめくが、一考の値打ちはありそうだ。

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