ノート論議

 論議というほどの大袈裟なものではないが、学校の授業などで先生の講義や黒板の記述をノートに書き写すというのは、誰にとっても馴染みの深いものだ。大学に行ってまでノート写しに終始して卒業する、というのは些か問題かもしれないが。
 このノートの書き取りについては、お下げの綺麗な着物姿のお嬢様が、大学ノートに洒落た萬年筆でさらさらと記入し、その後には訂正/加除の跡も見られない----- というような美しいイメージが伴うこともあるのではないか。学業を怠けていた学生にはありがちのほろ苦い思いかもしれないが、どうだろうか。
 先年、話題になったのは、東大生がしるしたノートは綺麗で読み易い、というもので、たしか著書まで出ていた。
 頭の良い人のノートは、きちんと整理されたものに違いない、という思いに対応するものだが、事実もその通りというのが著書の内容であったように聞いている。整理されたノートはそのまま試験に威力を発揮する筈で、つまりは頭の良い人のやることには何かにつけて間違いがない、その人の将来像までも既に保証されたかのような印象をも伴う。
 その著書を買った人のなかには、ある種の「期待」を持っていた方もおられたかもしれないが、結果はどうだっただろうか。頭の良さは金で買えるものなのだろうか。


 私が在職した職場の上司にも切れる人がいた。見ていると、資料も原稿も下書きもなく(まだワープロがない時代)、長い起案文書をサラサラと書き上げて、しかも訂正する様子もない。この文案を周囲に説明する時も手許のメモに頼る風情もない。やはり違ったものがあり、私は秘かに心中私淑したものだ。


 しかし、職場には違った人材もいることも分ってくる。その代表格はそのノートを見れば一目瞭然。走り書き、乱れ書き、そうしてメモなしでも整然と述べ立てるところは先の上司と同じ。しかも、論旨に整理の跡がない、と見えるところは、実は周囲の誰もが思いつかないような斬新なアイデアに満ちている。
 どちらの人が勝っているかということではなく、職場にはこの両方の人材が必要なのである。
 このアイデアマンの机の中を見るとその乱雑さに驚かされる。資料や紙切れが次々に詰め込まれ、溢れたものが下に落ちている。それでいて、必要な資料はどこからかすぐに探し出してくるのだ。不思議な才能である。この種の人には普通の「ノート論」など通用しないし、まず必要がない。
 ついでに。もう一人の人材がいて、その人の机のなは見事に片付いている-----というよりも常に空っぽなのだ。それでも資料作成となると直ちに何かを仕上げてくるのは見事なものだったが、しかし、残念なことにその内容は整理はされていても斬新なものとは言えないものが多かった。
 私の職場生活はというと、これら質の異なる人たちの仕事ぶりを横目で眺めながら右往左往したまま終わった、というのが実情。しかし、考えさせられるものは多かった。
 この人材たちの上には課長、部長、局長等の上司がいて、当然彼らの働きを多としていたわけだが、上司たちの望む文案の内容は当然に既往に捉われない短/中/長期的な企画(しかも複数)と実現の可能性ということになる。
 現実に力を発揮した文案というのは、長い論文調のものではなく、僅か数行に纏められた内容のものに限られていたような印象がある。少しケースが違うのかもしれないが、ある上司は「人に話す時は6割の内容があればよい」と部下に指示するのが常であった。
 綺麗な、または乱雑なノート術も、仕事の上ではこの僅か「数行」に集約される必要がある、ということだろう。


 古今の偉大な天才、ダビンチ、ニュートンアインシュタインたち。彼らの時代にはもしワープロ(とメール)があったら、更に多く業績を残せることになっただろうか、と想像することがある。手書きよりもワープロは早く書ける筈だからだ。
 しかし、??
 頭のなかので忙しく生起する考えを消えないうちに紙面に書き写す----- モーツアルトの作曲方法はまさにこれだったと言われている。だが、科学者、芸術家、文人、詩人等の場合(とりわけ推敲を伴う場合)はどうか。
 手書きこそが成果を生む、と言われることがある。私の職場の切れ者は、このワープロ時代に、いつもワラ半紙に鉛筆で優れた起案文を捻り出していたことを思い出す。作家にしても未だに手書き(しかも縦書き)に拘る方も居られることだろう。縦書きワープロを好んで使用する作家もいる。
 ワープロにしても、画面が大きくなければ勝負にならないこともあろう(ワープロの最大の利点は、データの蓄積と検索だが)。
 アインシュタインというと、必ず大きな黒板に訳の分らぬ数式を書き散らしている姿を連想してしまう。あの黒板から「光は曲がる」なんてとてつもない理屈が生まれてきたに相違ないのだ。
 彼が小さいケータイ画面で相対性理論の想を練っていることなど思いもよらないことである。松本清張は、必ず太いモンブラン萬年筆で原稿用紙に対峙している姿でなくてはならない。
<権兵衛の一言>
 そうなると、ワープロで詰まらぬ文章を長々と書き綴っている私はどうなるのだろう。
 せめて、上記の才人たちの引き立て役が務まるというのなら救われるのだが。 
 「ノート」というと、また別の響きを齎すこともある。
 例えば、三木清「人生論ノート」。