おじさん考

おじさん図鑑」という本が刊行され話題を呼んでいるとか。
 著者は女性イラストレーター。お得意のイラストを駆使して、おじさんの諸相を活写している。その(取材)範囲は驚くほど広く、例えば、次のようである。
◇ 普通のスーツのおじさん
◇ 偉いおじさん
◇ 案内係のおじさん
◇ 制服のおじさん
◇ 休憩中のおじさん


 等々、およそ60余項目。なかには、正体不明のおじさん、いやらしいおじさん、不倫している?おじさん、アート系おじさん、等々も、それらしい巧みなイラストと共にぬかりなく登場させられている。このなかにフーテンの寅さんが紛れ込んでいても、自然な街の風景の一つとして一向におかしくない。
 颯爽としたワイシャツ姿のビジネスおじさんの姿は珍しくもないが、上記のような時代の変遷をあまり感じさせないような「普遍的な?」 おじさん像は、我々の周囲にむしろフツーの存在として、昔から変わらない姿としてあったような気がする。


 そこで一考。
 これらの姿を見て我々おじさんは何を感じるのか。共感(あついは同感相哀れむ)以外にあるものは何か。
 いろいろとある書評の代表的なものの一つは ----- 様々な「人生の哀歓」を乗り越えてきた人たちの一つの諦観の現れ、というものであろうか。それを共通項として、様々な外観を描いたのがこの図鑑ということになるのらしい。


 おじさんに共通したものがまずあって、それが外面に現れ出たものは、どんな姿であっても(仮の姿だとは言わないまでも)本質的にはあまり変わりはないのではないか。
 では、共通するものとは何か。
 まず二通りのものがあって----- つまり大袈裟に言えば、おじさんたるにふさわしい死生観を持っているかどうか、である。
 あとの諸相はどのようなものでもよい。
 さすれば、ここで「人生の哀歓」といってもいろいろな深浅、幅があろうし、既に人生の深淵を覗き込んだ人もいる。また、いまだその域に達しない「幸せ?」な人たちもいることになる。それはいくら巧みなイラストでも表い切れないものがあるだろう。


 一つ問題。
 若者たちは おじさんを」どう見ているのだろうか、彼らは おじさんが理解出来るのだろうか。
 私にはあまり実益のない設問のように思われる。若者は おじさんを理解するよりもむしろ無関心である。いまのおじさんたちは、かって若い頃は目上の おじさんたちに無関心であり、やがて彼ら自身も若者の関心からは外れておじさんとなっていく。
 若者たちがおじさんに感じる「人生の哀歓」にしても、当のおじさんたちはそうは思っていないのかもしれないのである。人生の先輩などと言われると、むしろ疎外感を覚えるほどだ。
 すれ違いというよりは、それが当たり前の流れなのだ。
 おじさんたちはすぐに「今の若いものは」と苦情を言うが、言っても詮無いことである。おじさんは若者に構わず、広い図鑑の世界のなかで遊べばよいのである。


 ネットで見る様々な意見のなかには、おじさんと若者との考えの違いを浮き彫りにしたものが少なくない。
 その一つに、若者の車離れ、酒離れ、テレビ離れ、結婚離れ、等の流れのなかで、何故かグランドセイコーという高級腕時計の売れ行きが若者の間で最高潮であるというのだ。
 それも値段が半端ではなく、20〜50万円はするというものだ。


 この現象について、たまたま目についた老若の意見
を紹介してみよう(感想の一つで、老若の意見の代表というものではない)。
◇ 戦後苦労してきた我々おじさん族に比べると、いまの若者は恵まれている。そして幸せな生活を送らせてやりたい。しかし、若者がこういう高級時計を屈託なく買う姿はあまり面白くない。
◇ むしろ、みっともない、と思う。
◇ 若者が何も買わないと「〜離れ」「経済が持たない」と非難するが、金を使うと何故かケチをつける。
◇ 営業活動では、若者でも身につけた高級時計で信用されることがある。
◇ 高級時計は年輩の管理職にこそふさわしい。若者には不釣り合いだ。
◇ 時計はロレックス、あるいはオメガに限る。
◇ いや、パテイックスだ。
◇ 時計は高級でなくても、安物で十分だ。携帯でも電波時計でも時間は分るし、一向に困ることはない。


 ----- 等々、老若いずれかの意見かは分らないものもあるが、総じて、おじさんの意見は安定して、尤もなところがあるが、保守的、固定的と言われても仕方がないところもある。
 何よりも、おじさんたちが受けてきた教育や社会/経済環境をおのずから反映している格好である。
 若者の意見は、各様で纏まらないが、まずそうしたものだ。こうしたなかから新しいものが生まれる予感がする。
 そして、そうした若者たちも、やがておじさんらしい環境のなかで、それなりの時計を買うことになるのである(かもしれない)。


 ついでに、もう少しおじさんたちの思惑の範囲を無責任に広げてみよう。
 エジプトで発見される大古の粘土版に刻まれた文字には「今時の若いものはなっとらん」というおじさんたちの嘆きの言葉がある、というのは有名だが、宇宙時間からみれば、エジプト以来の歴史といってもほんの一瞬でしかない。
 宇宙論は詳しくない分野だが、素人なりの野次馬精神から言うと、エジプト以来の時間が短いというよりは、地球を含む大陽系の存在すら宇宙規模からみるとホンの瞬く間の出来事らしい。
 太陽は以後数十(百?)億年もすると、末期現象として大火球となって膨張し、地球や木星たちをも飲み込んでしまう大きさとなり、大爆発を起こして消滅すると聞く。
 地球は、勿論太陽に飲み込まれる前にアッという間に燃え尽きる運命にあるが、その時、エジプトもニューヨークも東京も、数十億の人間も、そしてわが愛すべきおじさんも若者も、すべて消失して無に帰する。
 爆発した大陽系は無数の破片やガスとなって、やがてまた新しい星なるのかもしれないが、その時は、かって地球という有人の星があったという事ななんか思い出されはしない。
 宇宙での星の爆発や新星の誕生などは、数千億個の星のなかの、ごくありふれた瞬時の出来事に過ぎないのである。


 私は何を言いたいのだろうか。
 こうした無限の宇宙のなかにあって、大震災や津波の恐れがあるといえ、無邪気に おじさん/若者論議をしていられることの意味を考ええているのである。
 宇宙論議を前にしては、高級腕時計を買うかどうかなどの問題はどうでもよい、年齢に関係なく、好きにすればよい。
 買いたいものを買って、自分が考えるおじさん像を実践すればよいのではないか。
(大言のわりには、結論は平凡なものとなってしまった。おじさんの通弊である)


<権兵衛の一言>
 「おじさん図鑑」のホームページを見たい方は、
http://www.tsumamu.net/

おじさん図鑑

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