< 二人のドヴォルザーク( 小品 賛歌)>

< 二人のドヴォルザーク( 小品 賛歌)

クライスラー:クライスラー ヴァイオリン名曲集(1)

クライスラー:クライスラー ヴァイオリン名曲集(1)

 多摩ファミリーオーケストラ公演の選曲には従来から一定のコンセプトがあるように感じられます。それは有名交響曲と著名な小品を組み合わせて音楽を楽しもうとするお客を待つ、という姿勢です。アマチュアオーケストラがよくやるような大曲を二つ三つ取り合わせる選曲では、気を抜くところがなくて、足が向かない場合があります。
 特に「無料」公演の場合は要注意でしょう。演目が面白くなければ、現金な客は振り向きもしません。「無料」だから客は来るだろう、という発想は必ずしも通用しないようです。


 今回の多摩ファミリーオーケストラは、メインの「新世界より」に問題がある筈はありませんが、取り合わせる小品類がポイントです。珍らしくアンダーソンの名曲をいくつも演奏するのですから、大いにPRの甲斐があろうというものでしょう。


 今回の演目は、「仮面舞踏会よりワルツ」(ハチャトリアン)続いて、アンダーソンの「キャプテンたちと王様たち」、「シンコペイテッド・クロック」、
「ザ・ガール・イン・サテン」、「ペニー・ホイッスル・ソング」、「春が来た」、続けて「四つの幻想的情景」(杉原岳彦)へと進み、躍動的な曲から楽しくムードのある曲へと流れ「幻想的情景」で締めくくるという趣向となっています。
 それぞれの曲について寸感を述べるまえに「小品」について少しだけ。


 交響曲に比べると小品は、文字通り小さくて軽いもの、コンサートでのお添え物、主食から見たオツマミ、ということになるのですが、私の感じでは少し違っていまして「対等/同列」といったものとなり、決してお粗末には扱えません。それどころか演奏家の力量をモロに露呈してしまう恐〜いものなのです。場合によっては、出身学校、師匠、コンクール歴、高価な楽器などを無にしてしまうほどのものです。
 何故かというと、
 長い曲、例えば◯◯ソナタなどという作品は、通常ソナタ形式等の様式に添って作られており(実はこの様式が曲者なのですが)、奏者は、この様式に添って熱演すれば、途中に多少の難があっても、拍手喝采が受けられます。たとえ、提示部で失策があっても再現部で回復させる事が出来ます。練習不足で曲に表情を付ける余裕がなくても、大過なく演奏を終えることも出来ましょう。
 しかし、小品では、終始一貫、徹頭徹尾、この「余裕」がないのです。練習不足、歌の欠乏は如実に反映されます。曲が始まったかと思うと、すぐそこにクライマックスが来て、慌てているうちに不消化のまま演奏を終えるという不始末に耐えなくてはなりません。
 小品は軽いものでは決してなくて、相当の準備と、歌い回しの事前研究と、そして優美に感銘深く演奏を終えられるだけの力量が必要となります。
 コンチェルトの大家でもアンコールの小品で評価を落とすことだってあるのです。小品やアンコール曲こそが正念場と心得るべきものでありましょう。


 優れた小品は数え切れないほどありまっすが、例えば、ヴァイオリンなら「美しきロスマリン」、「ウイーッ奇想曲」(クライスラー)、チェロなら「白鳥」(サン サーンス)はどうでしょう。敢えて申せば、コンクールの本選曲にしても良いほどの佳曲(難曲)です。(続く)

< 二人のドヴォルザーク( 暇種)>

< 二人のドヴォルザーク( 暇種)>
(その1)
 ルロイ アンダーソンとポップス オーケストラ。
 多摩ファミリー オーケストラのHP に第7回定演の告示が出ました。メインの「新世界より」のほか「仮面舞踏会よりワルツ」が予告されています。
 ほかに予定されているのは「四つの幻想的情景」(杉原岳彦/当団指揮者)とセミクラシック音楽の大御所 ルロイ アンダーソンの佳曲数曲です。
 世間では、アンダーソンの曲は「踊る仔猫」、「プリンク プランク プレンク」、「シンコペイテッド・クロック」、「タイプライター」、「トランペット吹きの休日」などが知られていますが、コンサートのアンコールなどの御添え物のように使われるなど、あまり重きを置かれていないような感じでもあります。
 そこで、調べてみました。
 いや、驚くべき大家なのですね。「セミクラシック音楽の大御所」という看板に偽りはなく、アメリカのミュージカル、ジャズ音楽など、ひいてはクラシックの世界にも大きな影響を及ぼした人物なのです。不勉強でした。


 アンダーソンは「セミクラシック音楽」あるいは「大衆音楽」、冗談音楽」------ 所謂 庶民に愛される作曲家の泰斗とも言える存在です。
 その作風は、冗談音楽がクラシック音楽のパロデイに陥り易い傾向があるのを排し、あくまで品位を保ち、伝統あるクラシックの書法のなかで、軽妙、諧謔、ユーモアに満ちた傑作を生み出したというところに最大の特徴があります。
 それもその筈、アンダーソンは音楽をハーバード大学で学び、修士号を得ています。軽音楽バンドで演奏したり、楽団を指揮したり、とその音楽修業ぶりは半端ではなく、とりわけ精彩を放ったのは名指揮者 フィードラーと共に、ボストン ポップスオーケストラ(ボストン交響楽団)で仕事をして、彼の音楽の真価を世に知らしめたことです。(ボストン ポップスの「ジェラシー」(ガーデ)はフルオーケストラによる名演の一つ。私の愛聴曲です)。


 アンダーソンにはもう一つの顔があります。それは氏が言語学の専門家で、博士号を持ち、教壇に立ったほか、軍の情報将校としてペンタゴン朝鮮戦争でも働きを示したということです。
 言語学というと何が連想されるでしょうか。一つには、母国語と異なる文化、生活習慣、言語に接する事によって、普通人では得られない特異な感覚を享受出来ることではないでしょうか。
 氏の音楽の題材が、普通の日常生活に見られ仔猫の生態やタイプライターにも向けられた、その誘因がそこにあるように感じられるのです。


 アンダーソンの音楽を聞くと、ミュージカル音楽でも大成出来たのではないかという高度の作曲技法が感じられます。例えば、高音域でのヴァイオリンの効果的な駆使や金管群の巧みな扱い。
 しかし、アンダーソンはあくまで小品の世界に遊び、我々庶民に楽しい音楽と夢を提供してくれました。もっともっと評価されていい大音楽家だと思われます。
 蛇足ですが、小品の世界というと、小説の世界では短編の名手 藤沢周平の名がすぐに思い浮かびます。藤沢は私が私淑する文章の師匠格の人で、お手本となる作品は例えば「用心棒日月抄」。これは短編の連作もので、次回作の冒頭には、読者の為に短い梗概が付記されていました。
 私は真似してその梗概を自分で作文してみようとしましたが、どうしても藤沢自身のもののように数行で纏めることが出来ず、どうしても冗長になってしまいます。短いものを作るというのは才能の不足というのではなく、才能の豊かさを示すものなのですね。
 別の私のお手本「編集手帳の文章術」(竹内政明)は、僅か460字の名コラム(読売新聞)を天下の名筆として世に知らしめた文章術の極意をしるしたものです。寄り道はここでオシマイ。


 今回、多摩ファミリーオーケストラは、アンダーソンの曲をいくつも取り上げます。日本のアマチュアオーケストラとしては、ボストン ポップスの向うを張った、独自の路線をいく試みではないでしょうか。


(その2)
< 二人のドヴォルザーク(その 9 ・補遺)>では、「冗談音楽」の名手、ヴァイオリニスト岡田鉄平(桐朋 出身)とピアニスト杉浦哲郎を紹介してみました。
 小人数の名手たちはほかにもいます。
◇ 「TSUKEMEN」。音大でヴァイオリン/ピアノを専攻した奏者三人によるポピュラー音楽のCD。冒頭の「カルメン」では超絶技巧をふんだんに披露してくれます。
◇ CD「HELP」。音大で弦とピアノを専攻した、ヴァイオリン二人、チェロ、ピアノの四人(女性)組。ジャズ/ロック調ですが、最後の曲「イエスタデイ」はしみじみと聞かせます。

Help! ~Beatles Classics

Help! ~Beatles Classics

< 二人のドヴォルザーク(その 11)>

 このとりとめのない雑文も、そのあまりのとりとめのなさ------ もうオシマイです。しかし、ドヴォルザークの懐のなかで、そのとりとめのなさと共に在ることの楽しさ、今回の多摩ファミリーオーケストラの演目のなかでの、ルロイ アンダーソンの名作「The Girl in Satin」の興趣に似ています。


 「新世界」の最後を飾る「第4楽章」は、交響曲の終幕の究極のお手本はこれだ、とでも言えるような見事な仕上がりです。「第8番」の終楽章も力作ですが、あくまでもボヘミアを彷彿とさせる音楽の白眉とは言えても、そこから大きく抜け出したような「新世界」の存在感には一歩も二歩も譲るようです。
 ミーハーならずとも思わず乗せられてしまうほどの迫力と魅力に充ち満ちています。奏者たちの「青年のように頬を紅潮させた」熱演という表現が見事に当て嵌まりましょう。
 交響曲のフィナーレに力を入れるのは、どの作曲家にも共通しています。「運命」(ベートーヴェン)、「革命」(ショスタコーヴィッチ)、「第5番」(チャイコフスキー)など思い浮かびます。しかし、私は特に「新世界」の素晴しさに軍配を挙げたくなります。


 まず終盤に先立ってのホルンの孤高の響き----- ここには朝靄にけむる摩天楼群、夕日に映えるグランドキャニオンの威容の趣きがあり、そして、そこから一気に終曲に向かっての究極の大団円。
 凡百の交響曲が至りえない境地でしょう。


 終り良ければすべて良し。(了)

ルロイ・アンダーソン名曲集

ルロイ・アンダーソン名曲集

< 二人のドヴォルザーク(その 10)>

閑話休題
 チェロの話でした。
 ある天才チェリストは、メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲のソロ部分をチェロで弾き、モタモタしているオーケストラを振り返っては大笑いしたそうですが、チェロ一つにも、逞しいアメリカのパワーが感じられるようです。
 ドヴォルザーク/チェロ協奏曲の、重音が複雑に折り重なったような独奏譜を見ると、このパワーの並々ならぬ凄さに圧倒され、素人は練習する気にもなれず戦意を喪失します。(うまい?言い訳ですが)。
 その斬新な趣向でブラームスを驚かせたというチェロ協奏曲。ドヴォルザークはどこから想を得たのでしょうか。「ノスタルジー」というキーワードには思い当りますが。あるチェリストからの依頼によるという話はありますが、それにしてもドヴォルザークにそれに応えるだけの意欲、発想、アメリカで得た経験/刺激の蓄積がなけれは作曲しようということにはならないと思われます。
 ブラームスは恐らくチェロ協奏曲に続く「新世界」の魅力にも(まだ存命中だったとと思われますが)感嘆の声を惜しまなかったことでしょう。


 ドヴォルザークの音楽の魅力ですが、オブリガード以外の技法上の魅力を挙げてみれば(あくまで素人判断ですが)、ドヴォルザークアメリカで新たに学んだと言われる「シンコペーション」。循環旋法。これは特に第3楽章スケルツオのフレーズが各所で巧みに使われています。
 「新世界」が本領とするノスタルジーの雰囲気。これはチェロ協奏曲にも弦楽四重奏曲の傑作「アメリカ」にも色濃く現れています。この弦楽四重奏曲は、物心?ついたアマチュアが必ずといっていいくらいにやりたがる名曲でしょう。
 この曲は、手垢が付くぐらいによく取り上げられますが、思った以上に難しく、まして「本領とするノスタルジーの雰囲気」を醸し出すような演奏をすることは至難の技です。単なる演奏技術だけでは満足出来ないものをミーハーでも持っている、ということでしょう。
 この 弦楽四重奏曲は、僅か四つの弦楽器で編まれた、古今の名曲中の名曲なのです。ボヘミア原産のドヴォルザーク弦楽四重奏曲とは一味も二味も異なった雰囲気を持っているようです。やはり新世界での特産品ですね。(続く)

ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、他

ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、他

< 二人のドヴォルザーク(その 9 ・補遺)>

 < 二人のドヴォルザーク(その 9 >文末のCD「Magical Mystery Classics」について、ブログ「幻 想 の 断 片」(小児科医/バイオリン弾き)をネットで見つけましたので、以下、引用/紹介させて頂きます。
 このCDは、ヴァイオリニスト岡田鉄平(桐朋 出身)とピアニスト杉浦哲郎が共演した所謂 「冗談音楽」の傑作です。

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クラシック音楽と、古今東西のいろいろな旋律を掛け合わせて作られた、冗談音楽の数々。映画音楽から童謡、演歌、CMソングまで、とにかくなんでもありだ。
1曲目のタイトルからして、「ヤン坊・マー坊によるメヌエット」だものね。でも、ふざけているようで、これが実はすごい。3拍子のモーツァルトのディヴェルティメントに、4拍子のヤン坊・マー坊のテーマがどう取り込まれているのか。聴いてみてください。
 最後の「トロイメライによる夏の思い出」は感動。「トロイメライ」と「夏の思い出」は同じ曲だったんですね。“子供の頃、夏休みに水芭蕉を見に行ったドイツ人”という説明に笑った。
 その他にも、不必要なまでに盛り上がる「美しき青きドナウ河のさざなみ殺人事件」や浦島太郎が紆余曲折の果てに宇宙に飛び立つ「日本昔ばなしシリーズ・その1〜浦島太郎外伝〜」とか、遊びが徹底していてとても楽しい。
 演奏は本当にプロの技で、パガニーニカプリース(多分私には一生弾けないだろう難曲)などは鳥肌もの。
 音楽は楽しむものだったんだ、と思い出させてくれる1枚。

Magical Mystery Classics

Magical Mystery Classics

< 二人のドヴォルザーク(その 9)>

ドヴォルザークのチェロ協奏曲についても、いろいろな逸話が残されているようですが、ドヴォルザークがどうして、どこからチェロという楽器の協奏曲の着想を得たのかは分りません。ドヴォルザークが、チェロとアメリカとの相性の良さに惚れ込んだのかどうか。
 ニューヨークで聞いた話ですが、ここには晴れのデビューの機会を狙っているチェロの名手が、常時数百人はいる、と言われたものです。
 気まぐれに顔を出してみたアマチュアオーケストラ(事情や雰囲気はこちらと似通っています)には、オーケストラ伴奏が欲しかったのでしょう、天才チェリストが一人いて、難曲「ロココの主題による変奏曲」をいとも簡単に弾き飛ばしていました。
 このアマチュアオーケストラでは、休憩時間になると、指揮者は慣例のように団員たちに説教を始めるのです。多分、お前らはヤル気あんのか、もっとよく練習してこい、恥ずかしくないのか、などとボヤいているのでしょう。しかし、団員たちは「またか」というような顔をしてソッポ向いたり、タバコをふかして仲間と雑談したり。そうした雑然とした空気も、イザ、天才(指揮者の弟)がチェロで超絶技巧を発揮しだすと、忽ち全員が緊張して演奏に集中します。音楽は説教よりも惰気よりも強し、ですね。
 余談です。私はこの時ヴァイオリンを持参したのですが、ケースがなかったので臨時にフロシキに包んで持っていきました。すると団員たちはフロシキを取り囲んで口々に、日本人はなんと賢くて素晴しい民族であることか、このフロシキは折り畳み自由なポータブル鞄だ、それにネッカチーフにも使えるし、傘代わりにもなる------ と、くすぐったくなるほどの持ち上げよう。訳が分らないまま、大いに面目をほどこした次第でした(英会話内容は、日本国の国益に配慮し、すべて自分に都合のいいように解釈しました(^-^))。


 私が見学した他のアマチュアオーケストラはもっとレベルが高く「春の祭典」なんかを粛々と練習していました。
 楽譜という人間の知恵が生んだ優れた用具のお陰で、生まれも育ちも違う異邦人たちが日本人と同じように音楽を演奏している姿は共感を呼ぶものですが、同時に、本当に同じ気持で音楽に対しているのだろうか------ というような妙な感慨をも伴います。むしろ、彼らから見て、クラシックを演奏している日本人はどう映るのだろうか、などと詰らない思いに捉われたりもします。
 お断りしておかなくてはならないようですが、これは、一昔前、日本人演奏家が国際コンクールなどに参加した時など必ずといっていいくらいに言われたこと------ 一体、日本人に西洋音楽を演奏する意味や資格があるのか、といった出口の見えない、ただ庶民を困惑させるだけの、しかも、国際コンクールでは優秀な成績を納めてしまうという、一種の神学論争のようなものとは「違う」だろう、ということです。
 ここが素人の雑文の雑文らしいところかもしれませんが、まあ「音楽は好きか、嫌いか、だけで決めればよいのではないか」と自分を納得させる以外にないのでしょうか。
 しかし、時は移り、いまや外国人が日本のお家芸である尺八の師匠になったり、広辞苑に匹敵する日本語の辞書を編んでしまったりする時代なのです。(続く)

Magical Mystery Classics

Magical Mystery Classics

< 二人のドヴォルザーク(その8)>

 名旋律生産家として高名だったドヴォルザークも「家路」の旋律を譜面上に捉えた時には流石に「やった!」と興奮を押え切れなかったそうです。「家路」の旋律というと、小学校の終業時、小学生たちに家路を急がせるように校庭に響いたあのメロデイです。「なんだ、あれか」と思う人は、一体こういう名旋律が普通の人間に簡単に作れるものかどうか、考えてみるといいと思います。偉大なものが表れる時は簡素な姿を伴うものらしいですが。


 コールラングレという、一種のオーボエで奏することが持ち味となっている「新世界」第2楽章/「家路」は、どのオーケストラでもオーボエ奏者の晴れ舞台となっているようです。  
 あるアマチュアオーケストラでは、そこの団員がこれを得意としていたのですが、彼は後日ヨーロッパのオーケストラにプロとしてスカウトされてしまいました。その後「新世界」が公演されるときは、わざわざ欧州から帰国して(させられて)名演奏を披露したものだそうです。
 で、この「第2楽章」ですが、私にはドヴォルザークの美質のすべてが凝縮されているような印象を強く持ちます。
 第2楽章」のどこが魅力的的かというと、旋律を彩る副旋律------ オブリガードの優れた扱い方が目立つように感じられるのです。この楽章では、勿論コールラングレが主役なのですが、際立つのは弱音器を付けたヴァイオリン群の名旋律、それを彩る管楽器群の動きです。「第8番」に立ち勝る魅力があるように感じられます。
 また、チェロ独奏を伴った第二の「新世界」ともいえる
チェロ協奏曲にもこの特徴が見られるよに思われます。(続く)