寸感/自己啓発、本屋大賞
● 自己啓発の功罪
ネットで見かけた辛口コメント。
------ 書店で良く見られる 自己啓発書の特徴は、人文書や文芸書に比べてデザイン的にあり得ないレベルで、品がない、と、とある。
私も在職中は人並み?によくお世話になったものだ。ドラッカー、ワープロ/パソコン入門、サラリーマン必読書一覧、40からの健康法、英語必勝法 などなど。懐かしいが、中身は遠く記憶の圏外に。生活のアクセサリーみたいにして、身を入れて読んでいないのだから「忘れた」と言うのも恥ずかしいくらいだ。
上記の辛口コメントは、更にこうだ。
強く打ち出される「絶対」「人生」「成功」「勝者」「金持ち」などの言葉は「シラフだったら絶対に口に出せないような 赤面系キーワード」とツッコみ、字が大きいこと、文字の量が少ないことなどとも。
そう言われればそうかな、ちっとも気がつかなかったけどね。
辛口氏が問いかけるのは、そもそも自己啓発書がこんなに売れるほど“意識の高いビジネスマン”が数多くいるのに、 日本が不景気なままなのは何故なのか、という点。その理由のひとつとして、本書では自己啓発書をありがたがる人たちが、
成功者たちの「目には見えない部分での努力や行動、勉強をすっ飛ばして」いることを挙げる。
そう言われればそうかな、ちっとも気がつかなかったけどね。
ここまで言われると流石に少しは分りますね。定年になっていて本当に良かった、とつくずく思う。
● 本屋大賞
- 作者: 三浦しをん
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2011/09/17
- メディア: 単行本
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私は芥川賞ものは避けて直木賞ものなら読む。庶民に近いように感じられるからだ。そして本屋大賞本は庶民の書棚にこそ直行しておかしくない雰囲気を持っているように思える。
それというのも、額に汗して働く書店員さん自身が自分なりの視覚、触覚で選び、権威の頼らず自分自身で読んで「面白かった」「お客様にも薦めたい」と思った本を投票するからなのだろう、と思う。世間の文学賞観に一石を投ずる事象ではないだろうか。
クラシック音楽の作曲コンクールの分野では、現代音楽の時流に乗って、これまでのべ–トーヴェンやドヴォルザークのような伝統的な作曲技法に基ずき、しかも人の心を揺すぶる音楽には敢えて目を瞑るという世界から抜け出せない----- どころか、それがどういうことなのかを顧みる余裕もなさそうなことに悲しみさえ覚える。
文学賞で思い出すのは、以前ベストセラーとなった「大いなる助走」(筒井康隆)。私の愛読書。内容は、地方の文学青年が文芸大賞(芥川賞?)を目指し、選考委員に金銭を贈ったりして頑張るが、最終選考で落選。この時の印象的な場面は、落選の報を聞いた同人誌仲間たちが万歳を叫ぶところ。それから、冴えない同人誌の連中が「俺たちは一体何をやってんだろう」と嘆くところ。しかし、ノーベル賞受賞の科学者でも1500回も実験に失敗したというから、嘆くのは早いのかも知れない。「何かを」やらなくては何も始まらないのは事実だからだ。
そして青年は選考委員たちを次々に殺害してまわる、という猟奇的?な結末。
映画にもなった。
面白いのは、この小説が、文学賞選考/授賞を取り仕切る出版社から世に出たことである。
話が脱線したが、これまでの入賞作品の例を挙げてみると、
『村上海賊の娘』和田竜
『海賊とよばれた男』百田尚樹
『舟を編む』三浦しをん
『天地明察』冲方丁 (了)
プロの修業道
● プロの修業道
- 作者: 千住真理子
- 出版社/メーカー: ヤマハミュージックメディア
- 発売日: 2014/11/21
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の修業の態様については殆ど語られることがない。あっても禅問答のような素人には宇宙語のように分り難いもの、が多いようだ。
クラシック音楽の弦楽器の領域では、師事した教師のこと、厳しい訓練の有様が、それも外側から語られるだけのことが多い。一つには企業秘密ということもあろうし、語るべき内容が既に禅問答のようなものでしか伝えられない内容である性かもしれない。例えば、
------ 往く道は精進にして、忍びて 終わり悔いなし (高倉健)
最近、一冊の本が出た。千住真理子「ヴァイオリニスト 20の哲学」。高名なヴァイオリニスト/千住真理子さんの自伝的修業道物語である。「哲学」と謳ってあるところは少し分りにくいが、これは出版社のネーミングだろう。女性の筆によるものだけに、情緒の域を豊かに残してあるところはあるが、「実学」として具体的なノウハウを説いたところは、音楽理論に疎い私にも分り易い。
20 ある見出し(哲学)の主なものを拾ってみる。------「練習の工夫」「イメージ」「集中力」「体力」「頭の切り替え」「緊張」「教師」「能力の伸ばし方」「楽器選び」「弓」「ボーイング/フインガリング」「音色」「暗譜」「レパートリー」等。
専門的な技術分野の先生は江藤俊哉氏だったが、この方は、一定レベル(コンクール受験クラス)の生徒指導を専らとし、言葉をあまり用いない技術系演奏家(以前の私のブログで触れた)の典型のようなお人だったらしい。
実際のレッスンでも、何回弾いても「駄目」としか言わないとか、とにかく言葉での説明が少ない方で、ここは生徒のほうで頭を働かせてレッスン内容を補う以外になかったようだ。
もし言葉による指導面が充実していたら、千住氏の筆致も実学寄りに変わっていたことだろうに、と些か残念な気もする。
詳しい例示もある。例えば、「集中力」の項目では、チョコレートをたべる、ガムを噛む、バナナを食べる、仮眠を取る、シャワーを浴びる、深呼吸、目薬、(高見盛のように)頬ぺたを叩く、生卵、蜂蜜を取る、耳栓をする、等々。
暗譜は、頭で、耳で、目で、指で、そしてそれらの総合戦力として覚える。多数のレパートリーは、全部即座に弾けるわけではないにしろ、少しの努力で起動状態になれるとか。
レパートリーのリストが挙げられているが、協奏曲が30あまり、ほか、私からみたら無数とも思えるソナタや小品群。(室内楽は省略されてある)。クライスラー作品が20 ぐらい羅列してあるが、多いように見えながらチャイコフスキー(協奏曲)一つの威容の陰では小さく映る。しかし、クライスラーの小品一つを弾くのも大変なことなのである。
用いる弦は、多数のブランドのすべてを試してあるらしいのは流石。私はピラストロの中級しか知らない。弓は2本用意して交代で用い、弓身が疲労するのを防止するようにと。
いろいろな「読み方」があろうと思われるが、音楽の道に進もうとされる方は読んでおくと良いと思われる。
アマチュアで、日頃、自分は何故こう下手なのだろう、と思っている人は、一読後、安心立命の境地に進むことが出来るだろう。
千住氏は以前、NHKのヴァイオリン講座に出講されたことがある。この時は、画期的な試みとして、ジャズヴァイオリンの中西博道氏との共同講座だった。
ジャズヴァイオリンは、クラシックの専門教育を受けなければ、その域に進めないことは分ったが、両者は「足して二で割る」と言った芸域は無いようだった。例えば、ジャズヴァイオリンのポルタメント/ヴィブラートには独特の味があるが、クラシックが一寸それを真似る
、ということは無理なようだ。
なんでも中途半端はいけませんよ、というような講座だったように思う。
あなたへ(再録)
高倉健の訃報に接し、以前に投稿したものを再録してみました。いまは、遺骨を残した妻/田中裕子がどんな思いで演じたのかを知りたいものだ、と思います。多彩な俳優陣のなかでは、大滝秀治が印象的でした。
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このほど、テレビで、評判のドラマ「あなたへ」が放映されたのですが、見損なったのでDVDを買ってみました。降旗康男 監督作品、高倉健、田中裕子 主演。
まだ見ていませんので迂闊なことは申せませんが、以下はDVD解説書を見ての感想です。
「迂闊なことは申せません」と書きましたのは、ドラマの主題が人の生死という俄には扱えないことを主題にしているからです。
解説書によりますすと、主人公(高倉)は妻(田中)を病で亡くし、その遺言に「遺骨を故郷の海に散骨して欲しい」とあったことから、ワゴン車で十数日間の旅に出て、そこでいろいろな人との出会いを通じて感慨を深める、という筋立てとなっています。
遺骨を通例のようにお墓の納めずに散骨する、といのは(法の規制もあるらしく)まだ一般的とは言えないでしょうが、それについての興味(と言っていいのでしょうか)もあります。
先年、「千の風に乗って」という歌が流行しましたが、その歌詞には「私(故人)はお墓のなかには居ません」というのがあって、お墓に詣る人の数が減った、という冗談のような話があります。
散骨というのは、この冗談?話が示すように、故人に対する世間の受け止め方の変化の一つ、と理解することもできましょう。葬儀の形も家族葬や直葬の形に変わってきつつあります。
変わったところでは、遺骨を小さなカプセルに入れて、宇宙ロケットで天空に打ち上げ、そこでブースターとともに燃え尽きる(空中散骨)という壮大なプロジェクトもあるようですが、何でも数百万円はかかるそうですから、一般的とはいえないでしょう。
これを聞いたある人が、そんなことをしては宇宙が汚れて困るる、と怒ったそうですが、そういう次元の話なのでしょうか。遺骨は周囲を汚すようなものではない、丁重に取り扱うべきもの、とまず考えるところから出発すべきものなのでしょう。
あるいは、打ち上げたカプセルが、静止衛星のように天空のある一点で静止してくれるようにすれば、人は夜ごと空を見上げて故人を偲ぶことが出来ましょう。「星に願いを」という名歌の雰囲気にぴったりです。
関係者の配慮の一端を示すものは、最近話題の公園葬というものでしょうか。これは遺骨をお墓ではなく、公園の樹木の基にほうむって母なる地球の土に還す、という考えによるものだそうです。
お墓詣りの様式も変わった----- こうした風潮は必ずしも、故人よりも今生きている人のほあうが大事----- という意味ではないでしょう。「千の風に乗って」が示すように、故人はお墓のなかに居るよりは、直接に我々の心のなかに、あるいは、見上げる夜空の星座のなかに居るのだ、と考えるのも一面ではより自然であり、故人への供養に繋がる、という考え方もあっていいのではないか、と思われるのです。
私の好きな詩の一つに、かっての大戦での戦没学生の作品があります。
遠い残雪のやうな希みよ、光ってあれ。
たとへそれが何の光であらうとも
虚無の人をみちびく力とはなるであらう。
(特に感銘を受ける部分は)
同じ地点に異なる星を仰ぐ者の
寂蓼とそして精神の自由のみ
俺が人間であったことを思ひ出させてくれるのだ。
(田辺利宏)
まだ二十歳代の青年が、戦地にあってこのような透徹した考えを抱くことについては、胸が塞がるような感銘とともに、心からの畏敬の念を禁じえません。
本題に戻りましょう。
高倉は妻の遺志に従って故郷に向かいます。その途次のいろいろな出会いや出来事につては映像を見てのこととなりますが、解説を見るだけでも様々な思いが胸をよぎります。
まず主人公/高倉ですが、映画のなかでは彼の心象風景はどのように、どこまで描かれているのか。これは、まさに「あなたへ」というこのドラマの主題に直結するものでしょうが、解説を読む限りでは、そこがどうもハッキリしないようです。
高倉は昔からその渋い演技を愛するファンが多く、そのややぶっきらぼうな言動や人間像が却って人気となっているようです(このほど文化勲章を受賞しました)。解説には高倉のメッセージもしるされていますが、ドラマが主題とする人の生死や散骨についての直接のコメントはなく、死に別れが切ない、人は哀しい存在である、というようなことが簡素な筆致で述べられているだけというような感じです。あるいは、それで充分なのかもしれませんが。
解説には、撮影で高倉と共演したりした多くの人たちの高倉像が語られていますが、映画の主題に関するものは皆無で、殆どは「ぶっきらぼうで、しかも、どこか暖かい高倉像」についての印象を異口同音のように語っているだけです。妻役の田中にしてもそうです。
これはどうしたことでしょうか。生死のことは誰しも口にはし難い問題ではあるにせよ、ここでは皆さんは敢えてこの問題を避け、撮影という仕事だけに思考停止状態で参加したのでしょうか。
そうとは思えませんが、これは恐らく解説書編集者がそこまで求めなかったからかもしれません。
しかし、ドラマを見る者としては、高倉像よりもむしろ(当然のように)映画の主題に関係者はどのように向きあって仕事をしたのか、そこからどういう感慨を得たのか、観客に何を訴えたいのか----- どうしてもそこまでのものを求めたくなります。それでこその解説書ではないでしょうか。
責任者である降旗監督は、流石にそうはいかないでしょう。
監督の映画作り---- それは主題をどう活かす作りとするのか、ということに尽きるのでしょうが、そこにはいろいろな模索があったようです。当然でしょう。
まず、高倉が遺骨を胸にして散骨への旅に出る、ところからして問題となるのでしょう。旅に出ないで、妻と生きた土地での人との触れ合いや語らいのなかに生死問題の解を見出す、という案もあるでしょう。
実際には、旅の途次、いろいろな人との出会いのなかで、高倉自身も変化し、そこにみずからの旅の意義をも見出す----- そのあたりに落ち着いたようです。
ここでは「ロードムービー」という言葉が使われていましたが、道行き(ロード)に従って、人は変わり(高められ)、そこに一種の安住の地を見出す、といったようなことでしょうか。一種の大河小説のようでもあります。
映画作品としてはこれで出来上がるようなものでしょうが、しかし、なお求めたくなるようなものがあります。
それは夫に依頼して、散骨に身を委ねることにした妻の、そこに至るまでの心境(依ってきたるもの、変化、推移)です。
妻(故人)はどういう思いで、夫の旅や途中での人びととの出会いの意味を見ているのでしょうか。
「ロードムービー」にそこまで求めるのは無理かもしれませんが、やはりもう一歩踏み込んだものを期待したいような気持があります。
「ロードムービー」では、どんなに努力しても、所詮は「こちら側」の人間の物語となってしまい、妻の心境までは描き切れないでしょう。
この妻の心境と散骨への旅をする夫の心を併せて描いてこそ、このドラマは完結する-----ように思われるのですが、それは無理なことでしょうか。
どう努力しても「あちら側」の人の周辺にまで立ち入ることは出来ないものと見えます。監督や脚本の責任(限界)なのでしょうか。
重松清の小説に「その日のまえに」というのがあります。妻の死後三ヶ月後に夫が目にした妻の遺書に、
----- 私のことは忘れていいよ
という趣旨の書き置きがあったそうです。
これはどう理解すればよいのでしょうか。「三ヶ月後」ということに重たい意味があるのでしょうか。
「こちら側」と「あちら側」が互いに歩みよらなければ、納得のいく道筋や解決は見られないように思われます。
やはり、問題が問題だけに、迂闊なことは申せないような気がする、というのが正直なところです。
- 作者: 森沢明夫
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
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<寸感> 大衆音楽、ラヴェル、クラシック音楽の命運
● 愛される大衆音楽とは?
ある辛口批評によると、音楽界は限定商品を特定消費者に売るだけ、またアマチュア層は未来の消費者層たりえるか、とされていた。
当然に異論はあるだろうが、ある音楽雑誌が行った管弦楽曲ランキング調査では、第一位がなんと「春の祭典」、以下「牧神の午後」「英雄の生涯」「ダフニス」「ラ ヴァルス」だそうだ。しかし、選者は音楽評論家、音楽ジャーナリストたちだとか----- これには、庶民の人々、アマチュアオーケストラや室内楽を楽しむ実質的に音楽界の下支えとなっている人たち、それに、ややクラシックは高踏的だと感じていながら、支持を惜しまない人や企業メセナの方たちの意見/実感は反映されているのだろうか。
このランキングには、大衆が親しむベートーヴェン、モーツアルト、シューベルト、チャイコフスキー、ドヴォルザークなどの名前はなかった。
この「ランキング」は、何の、それに誰のためのランキングを示しているのだうか。
素人の私が見た「ランキング」では、高位3位は今も昔も「新世界」「運命」「未完成」。まさに音楽界での「巨人」「大鵬」「卵焼き」的存在である。
今更 、「新世界」か。あの受け狙いの俗物性がたまらない、と言われるのかもしれないが、その「受け狙いの俗物性」それを大衆は望み、何回でも聞きたいと思っているのではないか。
演劇では、公演後、出口に団員たちが整列して「お客様」を見送るのが当たり前の光景となっているとか。ある勇気ある?アマオケがこれを実行したという話も聞く。合唱団では珍しくもないそうだ。
庶民感覚からすると、東京芸術劇場(池袋)で如何に高級な芸術活動が行われようと、劇場周辺の地域社会にさしたる経済的な見返りをもたらさない劇場は無用の存在-----という声があるそうだ。
海外のある都市では、劇場の入場料だけでは赤字なのに、劇場周辺の施設(商店、レストラン、公園、美術館、スポーツセンター等)の計画的な開発のお陰で、総合的には黒字という例もあるとか。
以前、東京のある区に同様の開発計画がある、とか聞いたことがあるが、どうなったことやら。
趣味の音楽がこうまでしなくては楽しめないというのは大変なことである。しかし、音楽は家庭の域を出て大衆のもものとなるためには、ある程度の社会的な支えがなくてはなかなか発展しないものでもあるのだ。
- アーティスト: 東京カルテット,ラヴェル,ドビュッシー,レイワルダー(ヘイディ),ストルツマン(リチャード),ゴールウェイ(ジェームズ)
- 出版社/メーカー: BMGビクター
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全国的な室内楽愛好家の組織としてエイパ(日本アマチュア演奏家協会)がるが、ここででは、合奏の例会や年次大会等で実に多彩な曲を取り上げるが、このラヴェルの弦楽四重奏曲については演奏されたのかどうかあまり記憶がない。(ドビュッシーやラヴェル/ピアノトリオは演奏されたようだが)。
この名曲は難曲としても有名で、プロでも相当程度の気構えが必要だと聞く。気構えだけならアマチュアにもあるが弾けはしない。私は、昔、よせばよいのに楽譜を見てしまって、すぐお倉入り。練習する必要も認められなかった。
それでも、第1楽章は、ちゃんとした分り易いソナタ形式になっていて、なんだかやれそうな雰囲気もある(と見えるところが曲者だ)。
実は、この第1楽章が、桂離宮(京都)の紹介番組(テレビ)の背景音楽に使われており、それが実に不即不離、ぴったりと馴染んで聞こえることに一驚した。和声はいまは誰も驚かない現/近代音楽風だが、それでもクール、理知的、清澄、人間味豊かで、より前衛的なショススタコヴィッチとは違う。それに、なんとなくホンノリしたお色気の風情までも。フォーレが更に洗練され、ドビュッシーを遠目に見て、ラヴェルはすぐ我々の傍に居る。画家でいえばクレー か。
但し、第2楽章以下は、残念ながら、というよりも当然に見送り。第1楽章にしても、新鮮な和声は、新たな運指と音の表情を要求して、きちんとした粒立ての、例えばモーツアルトの音列すら扱いかねている素人を混乱させる。美しい旋律の流れは(美しい薔薇にはトゲがある)、突然、常識に反した方角に流れて奏者を悩ませる。音程の難しさときたら、ここと思えばまたあちら、合っているのか違っているのか、それすら分らない。
しかし、なんという不思議で魅力的な音楽なんだろう。ヴァイオリンとヴィオラのユニゾン(第2主題)の新鮮な感覚、あるいは、ヴァイオリンとチェロの不思議な融合-----百年も前から既に知己であるかのような親近感すらあるではないか。ラヴェルと聞けばボレロしか思い浮かばない素人の常識は完全に打ち破られる。この曲の「使用前」と「使用後」とでは、住んでいる音楽の世界がまるで変わってしまった。
新しい発見だった。
● クラシック音楽の命運
以前、ある音楽家の印象批評のようなものだったが、クラシック音楽の命運についての感想のようなものがあった。以後、随分と時代も変わってはいるが、断片的に思い出してみる。
◇ クラシック音楽に未来はあるか? という問いに対して、
----- 役目を終えてはいないと思うが。
表現形式も楽器も完成しているから、それを上回る魅力を持った音楽がこの先出現するかどうか。
◇ クラシックは、そもそも、愛好家人口が広がる性質の音楽ではなかった。
------- よく見ているようなところもあり、納得しにくい面があり、やや、控えめ過ぎる面もある。
しかし、東京がニューヨーク、ウイーン、ロンドン等に比して、世界有数の音楽都市となっているということは認められよう。一般庶民には普及しているか、という点では諸説がありうるだろう。
東京だけで十指にあまるプロオケがある、ということはどう理解されるのだろう。チェロの大会があり、千人ものチェリストが大挙して押し掛ける、と、いう話は当たり前か、それとも? また10,000人の「第九」は?
このような事態を招いたことについては、いろいろな分析があろうが、まず、学校での音楽教育の充実、余暇/文化行政のお陰で、オジサン、オバサンの音楽学習に前向きな意識改革が行われたこと。かってのバブルの余恵で、全国に立派な音楽ホールが建設されたこと。合唱運動の普及が「第九」や市民オペラを後押ししたこと。これらのなかで、エイパの果たした役割も忘れられてはならないだろう。
アメリカでは庶民の音楽活動はどうなっているのか分らないが、オーケストラは一時、ジャズ音楽の普及で押され気味になった、という話を聞いたことがある。これを救ったのがフルオーケストラを活用する映画音楽とミュージカルであったという話は面白い。私は、とりわけ庶民に音楽の楽しみを与えるミュ–ジカルは、20世紀最大の発明品で、アメリカ独自の文化遺産ではあるまいか、と思っている。
総じて、私はクラシック音楽には明るい未来があり、 役目を終えるどころではあるまい、と思っているのである。
深川の芸者さんたちが、あでやかな着物姿で「第九」を歌っていたり、小学生のオーケストラが「第九」を演奏したりしている実情を見れば、音楽大国日本の底力に感銘を受けないものはいないだろう。
元気なオバサン、楽器と言葉
<寸感> 元気なオバサン、楽器と言葉
● 元気なオバサン
近所で見かけるそのオバサンは、以前スピッツを可愛がっていた。それ以前に、我が家に14年居たスピッツが亡くなった後、テリヤを飼うこととなったのだが、その前後に、若いスピッツがいるので貰わないかという話が来ていたのだが、それはテリヤが来た後のことだった。
オバサンには問わず語りで、そのスピッツは我が家に来る運命だったのかもしれないよ、などと話していたものだったが、オバサンの可愛がりようは我が子に対するが如しで、その幸せな様子を見て私も安心したものだった。
やがてそのスピッツは亡くなり、我が家のテリヤもその後を追った。オバサンは姿を見せなり、あとで分ったのだが難病を患ったのだとか。
ところが、暫くして再び姿を見せた彼女は、近くのスポ–ツセンターに通っているとかで、若々しいタイツ姿になって、愛犬を失った悲しみもどこか癒されている様子で、再度安心したものだった。
最近、センター帰りの彼女に出会ったのだが、10歳くらいも若返った様子で、私の手を捕まえてしきりにセンターへ勧誘するのだった。以前には見られなかったその積極性にも驚かされたものだ。センターには指導員(学生アルバイト)たちが居て、お客たちの接遇をするのがお役目だが、積極的な彼女は指導員たちにも人気があるらしく、それも、お説教までしたりするものだから、すっかり人生の先輩格としての役回りまで引き受けている様子。私が出会ったのもそのオーラが出始めた頃らしい。
人生に前向きなのは素晴しい。
私もすっかり彼女のファン/信者になって、センター行きを半ば約束してしまった次第。私はスポーツには無縁なのだが、むしろ、人生の牽引役としての彼女の信徒としてセンターに出向くことになるのかもしれない。
ひょっとしたら、主人思いの愛犬たちのお導びきだったのかもしれない。
●楽器と言葉
音楽人の為の文章術の本が出たそうだ(書評誌)。------「音楽を語る言葉/探る言葉」岡田暁生。(原著/「音楽の文章術」リチャード ウインジェル。
文章術とはなっているが、実はそれ以上に、音楽人としての心得を説いたものらしい。
まず、音楽人には、楽器を演奏する「実技系」の人と、音楽を専門的、楽理的に専攻する「音楽学系」があるとする。「実技系」の人は、コンサート会場のステージなどで我々の目にふれ、その演奏を拝聴することが出来るが「音楽学系」の方は、普通、音楽大学の奥の院に居られ、時に音楽論考を新聞紙面等で拝読することになる。
(*)アマチュアの私の実感としては、この区分はあまり切実な区分ではない。「実技系」は、多少でも楽理を知っておかなくては巧く演奏出来ないだろうし、「音楽学系」も、演奏実技の心得がなくては、血の通った文章が書ける筈がないからである。
(*)岡田暁生氏は京都大学人文科学研究所教授。音大の先生でないところが面白い。
実は文章術を隠れ蓑のようにして、その説くところの「音楽人としての心得」は、特に「実技系」にとって、どこか辛口のようだ。
まず、「実技系」は、音楽を言葉で表し、内容までを伝えようとすることに反発、あるいは無関心でる。音を文章で捉えることは不可能であると思っていて、(心中、秘かに)音楽は文字を越えて、音(演奏)で表現出来る、と思っている。
著者は、まずこれが不満である。
これはプロ演奏家のことのようであるが、アマチュア演奏家の間でもそのようで、アマチュアのオーケストラでも室内楽でも、作品の「解説」等には論議はかまびすしいが、内容面に立ち入った論述などは、手薄というのが実情らしい。
著者の目は、音楽人の将来設計にまで及んでいて、文章術が必要なのは、実は「実技系」人間なのではないか、と見る。
ソリストになれるほどの一握りの人は別として、教職に付くことになる演奏家は、言葉無しで生徒を指導することが出来るのだろうか。
いまどき、実技指導は、愛情と根性だ、と思っている教師は流石に少ないだろうが、愛情と根性は必要なものではあるにしろ、それだけでは生徒の大成を期待する事は出来ない。
演奏の実技は、実は頭の働きによるもので「勘」と「度胸」による、と思われるこのあるヴァイオリン演奏にも、理屈に合った指導法が確立されているのである。
例えば、指を置く目印が一切付いていないヴァイオリンの指板の上には、ちゃんと指を置く位置が決められていて、その位置を千変萬化、自在に変化/駆使するところに、パガニーニの目も眩むような神業が成立することになるのである。
神業と言っては素人には近寄り難いので、科学的演奏手法と言ってもよい。
ヴァイオリンを抱えて生まれてきたような、先天的に弦楽器演奏の才能の恵まれたハンガリーの人たち(習ったこともなく、また楽譜もなくて巧みに演奏できる)は別として、音楽学校の器楽科に入る学生たちは、この「科学的演奏手法」を頼りに勉強しているわけである。
実は、この「科学的演奏手法」にも問題があって、言葉を用いずに愛情と根性だけで指導しようとする先生がいるようだ、と著者は睨んでいる。
こうした先生や学生には教師業は勤まらない。著者の言葉を借りるなら、こうした教師は、レッスンで、
「どうして弾けないの」
と叫ぶことぐらいしか出来ないのである。もし生徒から「どうして、もっと巧く弾けるように指導してくれないの」と反問されたら、返答に窮することだろう。
これが愛情と根性による指導の実体だとしたら、生徒が可哀想ではありませんか。
私の知人のヴァイオリン教師は、「頭」(理屈)での指導に巧みで、全くの初心者を、5年くりいの期間で難曲メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲全楽章制覇に導いた実績がある。
ヴァイオリンを持って数年でステージに立っほどの神童は別として、音大に入って、この曲を課題としている生徒は珍しいとは言えないだろう。
ただ楽譜の音符を音に出来るだけでは「弾ける」ということにはならないからである。
(日本では、父親だけの指導で、12
歳くらいでステージに立ち、数々のコンチェル等を内容豊かに弾きこなし、当時の巨匠オイストラフを唸らせた、という話がある。音大の名門/芸大や桐朋の権威が確立する前の話である)。
言葉による指導、という面で、最近興味ある広告を目にした。
それは、ヴァイオリン演奏を、子供に英語(外国人教師)で教えます、というものである。
日本人の多くが憧れる英会話と楽器の英才教育を同時に可能にしよう、という発想なのだろうが、問題なしとしない。
ます、言葉が分らない子供に、楽器演奏の理屈を(しかも英語で)教える事は不可能だから、授業はお遊びにしかなりはしないか。メリットは子供が外人に物怖じしなくなり、発音に多少慣れるということでしょうか。
英語は、まず日本語との発想の違いから(日本語で)学んで、しかも(文法用例を含む)英文を多読しなければマスターは困難でしょう。
文章術とは、単なる文字の操作だけでなく、頭の総合訓練に繋がるものであるという、かなり厄介なものだ。
音楽でも英語でも、軽く見るとしっぺ返しを食らうものであるらしいことが、良く分ります。
この逆境をはね返して、文章を手玉にとり、音楽も英語もマスターする術は貴方次第----- という厄介なことになりますね。
- 作者: リチャード・J.ウィンジェル,Richard J. Wingell,宮澤淳一,小倉真理
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指揮者、アイクラ、初見、グルメ
<寸感> 指揮者、アイクラ、初見、グルメ
● オーケストラ の指揮者
あるアマチュアオーケストラ
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論議は、新人材発見と登用、任期、人柄、経費負担等に及ぶが、実際に棒を振ってもらう以外には決め手がない。また、一旦声をかけた以上はすぐ断るわけにもいかないのが難点である。
論議が一巡停滞したところ、ある意見が出てきた。
指揮者登用の手続き論ばかりで時を過ごしていないで、次ぎのことを「ただ、やってみればば良い」ではないか、という速戦即決論である。それは、
◇ 「ピアノ」と「フォルテ」 の確認、
◇ 旋律を歌わせる、こと
◇ ハーモニーの確認、
◇ パート間の掛け合い の確認
例えば「歌う」については百の論議があろうとも、実際には、現指揮者、団員(あるいは素人、ロボット)等の誰でもよいから指揮台に立って、演奏が良かろうが悪かろうが、ただ、
「駄目だ」
「もう一度」
だけを壊れたレコードのように繰り返していればよいのではないか------ という趣旨である。
「駄目だ」と言われれば、どんな演奏者にも思い当ることが山ほどある筈だ。それに、どのオーケストラでも、上記の諸項目を時間をかけて実行している、というところは少ないのではあるまいか。
論より証拠。
しかし、実際には現指揮者の体面上の問題や指揮法に煩い方がたからの原理原則論等があって、この方法が実践されることは少なのではないか、と思われる。
考えてみれば上記の4命題(「ピアノ」と「フォルテ」の確認等)については、なお検討の必要がある。
つまり、指揮者が「1,2,3,4」と棒を振る技術などは、まともな人間であれば誰でも出来ることである。
難しいのは------ 新機軸が求められるのは「どのように 1,2,3,4 と棒を振ればよいのか、という指揮の内容である。その点にこそフルトヴェングラーやトシカニーニの存在価値が認められてきたのであろう。
これを単なる棒振り技術に加えての(音楽の)「演出」と考えてみればどうなのだろう。
指揮者交代論というのは、単に若くて気鋭の指揮者を求めるということではなく「演出」を心得た人材を求める、ということになる。
それならば、現在の指揮者にも「演出」面を心得た指揮を勉強して貰えば良い、ということになるのではあるまいか。
オペラ公演では、指揮者のほかに演出家が重要な役割を演ずる。むしろ演出家が指揮者よりも重用されている、と見られることすらある。
指揮者もオペラを経験してこそ一人前、と言われることがあるのには立派な理由があるのである。
● 初見力とは何か。
初見力------ 譜面を見て、それをすぐさま音として表現出来る能力、は自慢になるものだろうか。プロには必要な能力ではあるが、その「音楽」としての出来栄え として見た場合はどうか。
囁かれていることは(失礼ながら)「初見力」は条件反射に近いものがあり、それだけで終って、人を感動させることが少ない、ということである。あまり反論が聞かれたという記憶もないわけであるが。
初見力が弱いのは残念なことであるが、後々からの研鑽で内容のある音楽に仕上げることは可能である(のではあるまいか------ 素人論議に終りそうであるが)。
聞いた話だが、技術の高いアマチュア演奏家の間では、初見で公演をクリア出来ることが、一種の勲章と見られているそうだ。
プロが公演前に必死で練習し、無事に公演を終えた後も、なお批評家の厳しい評価に晒されることを思うと、何か索然としたものを感じてしまうことがあるのも事実である。
● 「アイネ クライネ ナハト ムジーク」(「小夜曲」。モーツアルト)の処遇
この優れた名曲はアマチュアの世界では軽く扱われることが多いようだ。
理由は「取り組み易い」と見られて、あまりにも安易に弾き飛ばされ過ぎるからではなかろうか。
丁寧にやってみれば、1 音をも揺るがせに出来ぬ、優れた構成や音の運びに、誰でもたじろがさるえない筈であるが。
この名曲を詰らなくしたのは、この曲を好んで演奏(弾き飛ばす)アマチュアのせいではないか、と思われることがある。
● 孤独のグルメ
音楽には関係ない世界の話であるが、毎週水曜日夜に標題のテレビ番組があある。
自営業の中年紳士が、食事のために街中を散策し、気に入った店で黙々と食事をする------ ただそれだけの異色の内容である。
内田百間の小説にあるが、主人公が何の用件もないのに、ただ東京から大阪へ汽車に乗って帰ってくる、というそれだけの話を見事な短編に仕上げたものだ。
孤独のグルメ-----近来にない出色の着想------ ただ食事をするだけの番組を見てそう思った。
しかし、伝わってくるものは、ただそれだけのものではない。
まず見知らぬ店に初めて入って行く時の一寸した不安、違和感、期待感。
そして店主の飾らぬ接遇の態度、その奥さんを含めた店員たちの動き、初めて見るメニューへの新鮮な興味と驚き、長考した挙句に出された料理を賞味する時の緊張感、期待以上の美味への感動 ------ それは、グルメガイドを読んでは、並び、待たされ、ただ食べて「おいしい、うまい」と言うだけの人に分かるものではない。
それに、誰にも知られず食事出来る、自分だけの都会の匿名性の秘かな楽しみ。
店の内外を見渡せば、誰も主人公に構わず、家族連れ、あるいは一人で食事を楽しんでいる人たちの心根も伝わってくる。飾らぬ人生の一編がそこにある。
(孤独な)食事そして音楽、その楽しみ方に我々が忘れているものはないだろうか。
周囲に付和雷同して、音楽を楽しんだつもりになっていることはないのだろうか。
(*)テレビ批評欄など見ていると、このドラマはセット撮影でなく、実際の御店でロケされたことが分かる。
そのお陰か、店に客が押し寄せるようになって「街起こし」になる、と囃されたりしている。------- が、一寸違うのではないか。
これでは「孤独の〜」と題された番組の企画内容が活かされなくなってしまうではないか。
自分流音楽
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まだ読んでいませんので、内容はよく分かりませんが、音楽の技術面だけでなく、日本の音楽家が持つ音楽観というか、思い込み、それに時代風潮みたいなものが描かれているらしいので、是非読んでみようと思っておます。
少し分かっているところでは、内容は次ぎのようなものです。
------ ある日本の演奏家が「優れている」と言われるまでに成長し、夢と希望とともにアメリカに留学します。ところが指導教授から「お前の演奏は西洋音楽ではない」として、音階練習のみを課題として与えられ、絶望して自殺未遂事件を起し、帰国する羽目となります。
いまでは流石に表立っては聞かれなくなりましたが、少し前までの音楽教師は好んで「お前の技術は良いが、西洋の音楽になっていない」という叱責とも激励ともつかぬ言葉を生徒に投げかけたものたそうです。
こんな難しい問題に、生徒は反論するすべもなく、ただ絶望するか発憤するか(才能があれば)しかありません。
ところで、教師自身は「西洋音楽」を身に付けた上で、そういう言葉を口にしていたのでしょうか。
まだ海外渡航が自由でなかった時代のこと------ 教師自身も、彼の教師から同じ叱責、激励を受けながら、幻の「西洋音楽」らしきものへの憧憬と模索を「叱責、激励」という形でそのまま生徒に投げかけていたのかもしれません。
当の西洋人だって十人十色。定まった音楽観がありえたのでしょうか。国情の違いもあります。時流に乗った音楽というものはあったのでしょうが。崇高な音楽と崇められていた筈のバッハの音楽が、長い間忘れられていた、というのも変な話です。
さて先の話の続きですが、くだんの演奏家は、帰国後立ち直って演奏活動を続け好評を得るのですが、今度は批評家から、その演奏は「演歌風」だと評され、今度は本当に自殺してしまいます。
日本の演奏家で、自殺しないまでも、こうした音楽の本質---- 西洋音楽、あるいは演歌風、などの捉えどころのない難問を突きつけられて苦しんだ人は多いのではないでしょうか。
そんななかでも、クラシック演奏家で秘かに演歌を愛する人だって珍しくありません。凄腕のジャズヴァイオリニストはクラシック畑から生まれています。
時代は流れて、いまは日本人演奏家が憚るところなく自分流の演奏をし、それが海外でも評価されるというところまで来ました。悩むとすれば、自分の技術が自分の欲する音楽像を表現しうるレベルに達しえているか、更には、それが人に感動を与える境地にまで至っているか----- という問題に素直に迫れるとことまで来ています。
良い時代、あるいは、本当に自分が掛値なしに試される恐い時代になったものです。
他方、自分の演奏が厳しい評価に晒されたことのない音楽学生やアマチュアたちは、自由に(無責任に)ものが言える時代なのかもしれません。
芸大卒業、そして音楽コンクール優勝後、演奏家となったある女流演奏家は、難曲とされる曲のCD 化をこなして、演奏家としての一定の評価を確実にしました。
ところが、彼女の同期の音大生たちのサイトでは、とても客気、覇気、音楽熱に燃えた青年たちとは思えない悪口、誹謗、中傷が氾濫しています。
そして、愉快なのは、当の非難されている筈の彼女が、まさに当世風というのか、そのサイトに「匿名」で登場して、元気に悪口の応酬をしている姿が頼もしく?映ります。
一方の音楽教師や評論家も、自分の音楽観が試される恐い時代になったとも言えます。
以前の話ですが、高名な作曲家の作品について、評価の筆が鈍りがちであったとろに、これも高名な批評家が、少し辛口の批評を加えました。するとどうでしょう。実は私もおかしいと思っていた------ と尻馬に乗った批評家が次々と現われて遠慮のない批評(悪口)三昧。
冒頭の「ある人の読書評を耳にいたしました」に戻りますが、その人は日本人演奏家の世界的な活躍を多としながらも、「世界的」にの「的」が付くようでは、まだまだだ、としていました。
「世界的なオザワ」ではなく「世界のオザワ」でなければならない、ということでしょう。
余談ですが、私が世話になっている小アンサンブルは、普通のアマチュアオーケストラとは少し違っていて、クラシックの小品、セミクラシック作品、シャンソン、そして演歌など、肩の凝らない音楽を中心に動いております。アマチュアの演奏家は多くいますが、多くは交響曲とか由緒正しい室内楽を愛する傾向があり、ポピュラーに近いものは敬遠される気味があるようです。
セミクラシックを弾く機会があっても、事前に熱心に練習する人は少ないようで、その結果演奏が不発に終わっても、演奏者に責任はないという気風です。
私のアンサンブルは(演奏は上手とは言えませんが)、西洋風でもあり演歌風でもあります。国籍不明、言ってみれば世の評価基準を超えた(外れた)、あるいは別次元のグローバル風とでも言えるのでしょうか。「風」が付いているところが御愛嬌ですが。
良い時代になったものだ、と自画自賛しておきましょう。
◇ 話題をもう一つ。
作村河内事件で世間を賑わせた新進作曲家、新垣隆氏ですが、先般テレビ出演し、打って変わった明るい表情で近況を語ってくれました。
桐朋大講師は辞めて、本来の作曲活動に専念しているらしく、幸いなことに、その作品類は桐朋の同僚、友人たちが手弁当で演奏してくれているのだそうです。
桐朋の演奏陣となれば、これは当代超一流ですから、これに勝る強力な援軍はありえません。
一方の作村河内氏の消息は聞きませんが、やはり新垣作品のおこぼれで生活しているのでしょうか。
持ち分のCD等の売れ行きが落ちているとなれば、これは当然の成り行きかもしれませんが、本来は新垣氏作曲のものですから、持ち主によって作品の評価(売れ行き)が変わるというのはおかしな話(あるいは当代風というか)です。
クラシックの評価というのは難しいものです。
やはり自分流というのがが一番なのでしょう。